第3話 二つの月の下で④
荷車が近づくにつれ、引いている動物の姿がはっきりしてきた。
馬に似ているが、透の知っているものより一回り大きい。首筋には短い毛が密生し、額からは後方へ緩く曲がった二本の角が伸びている。太い脚が土を踏むたび、車輪が浅い轍を刻みながら進んでいた。
荷台には丈夫そうな布の幌が掛けられ、隙間から木箱や麻袋が覗いている。御者台に座っているのは、日に焼けた顔に短い髭を生やした中年の男だった。その隣には、透より少し年下に見える少女もいる。
人間だ。
服装は日本で見慣れたものと違うが、少なくとも外見はそう判断できた。
「透、どうする?」
澪が耳元へ近づいてきた。
「まずは声を掛けてみる」
「言葉、通じるかな……」
「駄目なら身振りだな」
不安がないわけではない。相手が友好的とも限らないし、この世界の人間にとって自分たちがどう映るのかも分からない。
それでも、水も食料もないまま森を歩き続けるよりは、目の前の人間に助けを求める方が現実的だった。
透は荷車の進路を塞がない位置へ移動し、両手を見える高さまで上げた。
「すみません!」
御者台の男がこちらへ顔を向けた。
すぐに手綱を引き、荷車の速度を落とす。角のある動物は数歩進んでから止まり、鼻先を軽く振った。
男の視線が透の服装から鞄へ移り、続いてその隣を漂う澪へ向けられる。
腰には短い刃物が下がっていた。
相手に警戒されている可能性は十分にある。透はむやみに近づかず、その場で立ち止まった。
男が何かを言った。
「――おい、こんなところで何をしてる?」
「…………」
透は目を瞬かせた。
聞こえた。
意味が分かった。
ただ、妙だった。
耳へ入ってきた響きは日本語と違う。聞いたことのない音が混じっているのに、それを理解しようとすると、頭の中では自然に意味が繋がっていた。
「透?」
澪も不思議そうにこちらを見ている。
「今の、分かったか?」
「うん。……分かった。え、何で?」
どうやら澪も同じらしい。
透は一瞬だけ迷ったが、まずは会話を続けることにした。ここで言葉の仕組みを考えていても、相手を待たせるだけだ。
「道に迷いました。人のいる場所を探しています」
男が眉を動かした。
「迷った? この辺りを歩いて来たのか?」
「はい。森の奥から」
「奥って……まさか、あの古い遺跡の方じゃないだろうな」
透は表情を変えないように努めた。
遺跡を知っている。
その事実だけでも、声を掛けた甲斐があった。
「そこから来ました。あの場所をご存じなんですか?」
「知ってはいるが……」
男は言葉を切り、再び透たちを見た。
警戒するのも無理はない。道もない森から見慣れない服装の男が現れ、傍らには宙に浮かぶ少女までいるのだから。
むしろ、すぐに荷車を走らせなかっただけありがたい。
「父さん、この人たち、困ってるんじゃない?」
御者台の少女が口を開いた。
彼女も透と澪を交互に見ている。その視線は、空中に浮かぶ少女の位置で確かに止まった。
透はそのことに気づき、胸の内で小さく息を呑んだ。
今、澪を見たのか。
日本では、透以外の人間が彼女へ明確な反応を示したことはなかった。大学でも誰一人、制服姿の女幽霊を認識していなかったはずだ。
ところが目の前の二人は、最初から澪も数に入れているように見える。
「……ねえ、透」
当の本人が声を潜めた。
「あの子、私のこと見てない?」
「そう見えるな」
返事を聞いた澪が、ゆっくりと少女の方へ顔を向ける。
「あ、あのー……」
試すような声だった。
御者台の少女が反応した。
「はい?」
「…………えっ」
澪が固まる。
少女も、不思議そうに首を傾げた。
「どうかしました?」
「……聞こえるの?」
「え?」
「私の声、聞こえてる?」
「聞こえてますけど……」
澪は透を振り返った。
目を大きく見開き、何か言おうとして口を開く。しかし、すぐには言葉にならなかった。
透にも驚きはあった。
転移してから何が変わったのか、まだほとんど分からない。ただ、少なくともここでは、澪を認識できる人間がいる。
その事実は、彼女にとって大きいはずだった。
「おい、そっちの娘は霊体なのか?」
男が尋ねてきた。
透は澪へ目を向けた。
本人はまだ驚いた顔のままだったが、小さく頷く。
「はい。そうです」
「そうか。珍しいな。これだけはっきり形を保ってるのは、あまり見かけん」
珍しい。
だが、存在そのものは知られているらしい。
透はその言葉を覚えておいた。
この世界では、幽霊が見えることを隠さなくてもいいのかもしれない。少なくとも、目の前の男は澪を見ても、すぐに化け物扱いするような反応を見せていなかった。
「ねえ、透」
澪が近づいてきた。
「私、今、普通に返事してもらえた」
「あぁ」
「透以外の人と喋れた……!」
声が弾んでいた。
透は短く頷き、御者台の親子へ向き直った。
詳しい話は後でいい。今はまず、助けを求める必要がある。
◇
男はガルドと名乗った。
町で雑貨や日用品を扱っている商人で、隣に座る少女は娘のリナというらしい。二人は近隣の集落での取引を終え、レイヴェルという町へ戻る途中だと説明してくれた。
「お前さんたちは?」
「神代透です。こちらは白石澪」
「トオルとミオ、か。聞き慣れない名だな」
「遠くから来たので」
嘘ではない。
ただし、距離の説明が難しいだけだ。
「遠くって、どこ?」
リナが興味深そうに身を乗り出す。
透は少し考えた。
日本と言ったところで通じるとは思えない。かといって、異世界から来たと説明して信じてもらえるかは分からなかった。
「……ここからだと、かなり遠い場所です」
「どの辺り?」
「それも、今はよく分からなくて」
「よく分からない?」
ガルドが眉をひそめた。
当然の反応だろう。透自身、説明しながら怪しい話だと感じている。
「目を覚ましたら、あの遺跡にいました。どうしてそこにいたのか、まだ分かっていません」
そこまでは事実だった。
憑依や光の図形の話を今すぐ持ち出しても、相手を困らせるだけだろう。まずは居場所を確保してから、必要に応じて説明すればいい。
ガルドは透の顔をしばらく見ていた。
「……妙な話だな」
「そうですね」
「自分でもそう思ってる顔だ」
透は否定しなかった。
すると、リナが澪へ視線を向ける。
「ミオさんも、あそこから?」
「う、うん。透と一緒に」
「そうなんだ。私、こんなにはっきりした霊体を見たの初めて!」
澪は少し照れたように笑った。
「私も、普通に話してもらえたの初めてかも」
「えっ、そうなの?」
「前にいたところでは、ほとんど誰にも見えなかったんだよね」
「へえ……不思議」
リナは身を乗り出したまま澪を眺めていたが、ガルドに軽く肩を叩かれ、御者台へ座り直した。
「それで、二人とも行く当てがないわけか」
「はい。できれば、町までの道を教えていただけると助かります」
「道を教えるだけでいいのか?」
「……可能なら、水を少し分けていただきたいです」
透は正直に答えた。
昨夜から何も飲んでいない。喉の渇きは、もう無視できるほど軽くなかった。
「食事は?」
「昨日の夜が最後です」
「なら、町まで歩くのはきついだろうな」
ガルドは少し考えるように顎へ手を当てた後、荷台の方を振り返った。
「リナ。水筒を取ってくれ」
「うん!」
リナが幌の下へ身を乗り入れ、革製の水筒を取り出した。
ガルドはそれを受け取ると、透へ差し出す。
「飲め。こっちは予備がある」
「ありがとうございます」
透は両手で受け取り、口をつけた。
冷たくはなかったが、乾いた喉へ水が流れ込む感覚に、ようやく身体が少し落ち着いた。勢いよく飲み干したくなるのを抑え、数口で水筒を離す。
「……助かりました」
「無理して飲むなよ。まだ道中がある」
ガルドの言葉に頷き、水筒を返そうとしたところで、澪が横から覗き込んできた。
「ねえ、おいしい?」
「水だぞ」
「そうだけど」
「……普通においしい」
「今、ちょっとだけ嬉しそうに言った」
「喉が渇いてたからな」
澪は笑ったが、すぐに水筒へ視線を落とした。
彼女には飲めない。
透はそのことを改めて意識したものの、余計なことは言わなかった。代わりに水筒をガルドへ返し、もう一度礼を述べる。
「町までは、あとどのくらいですか?」
「荷車なら昼過ぎには着くだろう。歩くならもっと掛かるな」
「そうですか」
「乗っていくか?」
透は顔を上げた。
申し出はありがたい。
ただし、見知らぬ場所で出会ったばかりの相手だ。親切を疑いたいわけではないが、何の確認もせず荷台へ上がるのは少し躊躇われた。もっとも、そんな相手から水を受け取って飲んでしまったが。
ガルドは透の表情を見て、口元を僅かに緩めた。
「別に取って食いやしない。こんなところに置いていって、後で野垂れ死にされたら寝覚めが悪いだけだ」
「父さん! その言い方は、ないでしょ!」
「事実だろ」
リナが呆れたように言う。
透は二人のやり取りを見ながら、もう一度周囲を確認した。
荷台には商品らしい木箱が積まれている。武装しているのはガルドだけで、今のところ敵意を向けられている様子もない。町までの道を知る相手と一緒に行けるなら、森で迷う危険も減らせる。
もちろん、それだけで安全が保証されるわけではない。
それでも、今の自分たちには他の選択肢がほとんどなかった。
「……お願いできますか」
「ああ。荷台に場所を作るから待ってろ」
「何か手伝います」
「助かる。そこの箱を奥へ寄せてくれ」
透は指示された木箱を持ち上げた。
思ったより重かったが、どうにか荷台の奥へ運ぶ。ガルドも別の荷物を動かし、二人が腰を下ろせる程度の空間を空けてくれた。
「私はどこでも平気だよ!」
澪が荷台の上へ浮かぶ。
「そうだな。お前の席は必要ない」
「その言い方、何かひどくない!?」
二人のやり取りを見ていたリナが、クスっと小さく笑った。
透はその反応を見て、少し不思議な気分になった。
澪の冗談に、自分以外の人間が笑っている。
たったそれだけのことが、今までになく新鮮だった。
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