第3話 二つの月の下で③
結局、透はなかなか寝つけなかった。
石壁へ背を預けて目を閉じても、床の硬さと背中の鈍い痛みが気になる。姿勢を変えれば少しは楽になるものの、今度は別の場所に小石が当たり、落ち着ける位置が見つからなかった。
昨日まで使っていたベッドが、ひどく贅沢なものに思えてくる。何の変哲もない一人暮らし用の寝具だったはずだが、少なくとも身体を横たえれば背中に石が食い込むようなことはなかった。
透は目を開け、遺跡の入口へ視線を向けた。
澪は少し離れた場所に浮かび、外の様子を確かめている。時折こちらへ顔を向けるあたり、見張りという役目はきちんと覚えているようだった。
「澪」
呼び掛けると、彼女はすぐに戻ってきた。
「どうしたの? 何か聞こえた?」
「いや。少し休めばどうだ」
「私、疲れないよ?」
「それは知ってるけど、ずっと入口にいる必要もないだろ」
澪は一度外を振り返り、それから透の隣へ移動した。座る場所を探すように周囲を見た後、壁際で膝を抱える姿勢になる。石床には触れていないのに、こういう時の仕草は妙に人間らしい。
「眠れない?」
「寝心地が悪い」
「……ごめん」
「そこは謝らなくていい。石床のせいだ」
「ここに来たのは私のせいだけどね」
透はすぐには答えなかった。
先ほども謝られたばかりだ。原因を曖昧にして慰めるつもりはないが、同じことを繰り返されても状況は変わらない。
「それはもう聞いた。帰ったら説教するとも言っただろ」
「覚えてるよ……。忘れてくれててもよかったのに」
「残念だったな」
澪は小さく笑ったが、すぐに視線を落とした。
「でもさ。もし帰れなかったら、どうするの?」
透は入口の向こうへ目を向けた。森の上には二つの月が浮かんでおり、遺跡の崩れた壁を淡く照らしている。見慣れない夜空は何度眺めても現実味に欠けたが、だからといって目を逸らせば元の部屋に戻れるわけでもない。
「まず人を探す。ここに住んでる人間がいるなら、土地のことも、あの遺跡のことも知ってるかもしれない」
「人がいなかったら?」
「別の場所を探す」
「そこにもいなかったら?」
「……お前、今夜中に全部の可能性を潰す気か?」
「そういうわけじゃないけど」
澪は困ったように眉を下げた。
透にも不安はある。食料も水もなく、現地の言葉が通じる保証さえない。朝になったからといって道が開けるとは限らず、見知らぬ森で危険な生き物に遭遇する可能性だってあった。
それでも、一度に考えたところで対処できることには限りがある。
「明日、人のいる場所が見つからなかったら、その時に考えよう。今はまだ何も見てない」
「……うん」
澪は頷いた後、透の顔を見た。
「透は、あんまり怖くないの?」
「怖いぞ」
「えっ」
「ここがどこかも分からないんだ。怖くない方がおかしいだろ」
澪は少し意外そうに目を瞬かせた。
「全然そんなふうに見えないから」
「騒いでも帰れないしな」
「そうだけど……」
透は立てていた膝へ腕を載せた。
自分が落ち着いていられるのは、状況を受け入れているからではない。手をつけられる問題から順番に考えていないと、どうにもならない事実ばかりが頭に浮かぶからだ。
明日の大学には行けない。連絡をしようにも電波はないし、家族や友達が自分の不在に気づいたところで、二つの月がある世界まで捜しに来られるはずもない。
日本に残してきたものを数え始めれば、いくらでも出てくる。
だからこそ、まずは帰るために動くしかなかった。
「俺だって、できれば今すぐ帰りたい」
「……うん」
「大学もあるし、部屋に洗濯物も残してる」
「そこで洗濯物!?」
「放っておくと困るだろ」
「もっと大きな心配あるじゃん!」
澪が声を上げる。
透は僅かに口元を緩めた。いつもの調子が戻ってきたなら、ひとまずそれでいい。彼女が黙り込んでいるよりは、少しくらい騒がしい方が今は落ち着く。
「帰ったら洗濯からだな」
「私はお説教からでしょ……」
「よく覚えてるな」
「忘れさせてよ!」
澪は不満そうに頬を膨らませ、それから小さく息を吐くような仕草をした。
「……帰ろうね、透」
「あぁ」
今度は迷わず答えた。
方法は分からない。それでも、二人で元の場所へ戻るという目的だけは決まっている。
透が再び目を閉じると、澪は入口の方へ戻っていった。先ほどよりも少し近い場所で見張りを続けているらしく、彼女の気配は壁の向こうへ消えずに残っていた。
やがて、疲労が身体の不快感を上回り、透の意識は浅い眠りへ落ちていった。
◇
次に目を覚ました時、遺跡の中は薄明るくなっていた。
崩れた天井から青白い光が差し込み、昨夜は見えなかった石壁の細かな亀裂や、床に溜まった砂まで確認できる。外では鳥の声に似た高い鳴き声が続いていた。
透は身体を起こし、背中を押さえた。
「……痛いな」
「おはよう、透!」
入口付近から澪が戻ってくる。
「おはよう。何かあったか?」
「特には。たまに森の方で音がしたけど、ここまで来るものはいなかったよ」
「そうか。助かった」
「ふふん。任務完了です!」
澪は得意げに胸を張った。
透は立ち上がって腕を伸ばし、身体の状態を確かめる。背中は痛むが、歩くのに支障はなさそうだった。眠りは浅かったものの、少し休めただけでも昨夜より頭が働く。
荷物を確認し、スマートフォンで時刻を見る。日本の表示では早朝になっていたが、こちらの日の出と一致するかどうかは分からない。
「外、明るくなってる?」
「うん。ちゃんと見えるよ。あとね、月が一個まだ残ってる」
入口へ出ると、森の向こうから朝日が差し込み始めていた。昨夜見えた大きな白い月は姿を消しているが、小さな青白い月は空の高い位置に薄く残っている。
明るくなっても月が二つあったという事実は変わらないらしい。
透は軽く息を吐き、遺跡の周囲を見渡した。
昨日、暗闇の中で見つけた石畳は、建物の入口から森の方へ続いていた。草に埋もれた箇所も多いが、石の並びを目で追えば、おおよその方向は分かる。
「これを辿るか」
「道があったんだね」
「昔は使われてたんだろうな。今もどこかへ繋がってるかは分からないけど」
透は出発する前に、遺跡の入口と周辺の景色を写真に残した。目立つ石柱と崩れた壁、それから道が伸びる方向も撮っておく。
元の場所へ戻れるかどうかはともかく、今後ここを探す必要が出るかもしれない。転移に関係している可能性がある以上、位置を忘れていい場所ではなかった。
撮影を終えると電源を切り、スマートフォンを鞄の取り出しやすい場所へしまった。
「じゃあ、行くぞ」
「了解、隊長!」
「まだそれ続けるのか」
「私、見張りとして実績あるからね」
「今度は隊員になる実績を積んでくれ」
「隊長、部下への要求が高いです!」
澪は笑いながら、透の少し前へ浮かんだ。
昨日までの大学生活とはかけ離れた朝だったが、彼女の声だけは変わらない。そのことに、透は少し救われていた。
◇
石畳は、見た目ほど歩きやすい道ではなかった。
地面へ沈んだ石の上には土や苔が積もり、ところどころで木の根が表面を押し上げている。昨夜のうちに湿ったらしく、踏み方を間違えると靴底が滑った。
透は足元を確かめながら進み、澪には道の先を見てもらうことにした。ただし、姿が確認できる範囲から離れないよう伝えてある。
「少し先で道が曲がってるよ」
「右か、左か?」
「右。大きい木を回り込む感じ」
「分かった」
澪が戻ってくるのを待ち、透は石の並びを追って歩いた。
森の中は日差しが届くようになっても薄暗い。木々は日本で見慣れたものと似ているが、幹に青灰色の筋が入ったものや、葉の裏だけが赤く見えるものも混じっていた。
足元には小さな花が咲いている。透が近づくと、花弁に見えた薄い膜がゆっくり閉じ、球のような形になった。
「……今、動いた?」
澪がすぐに顔を寄せる。
「触ってないぞ」
「分かってるって! 私も触れないし」
二人が見つめている間にも、近くの花が一つ、また一つと閉じていく。
影に反応する植物なのか、振動を感知しているのか。理由は分からないが、見覚えのない動きだった。
「すごい。何これ」
「少なくとも、食べられるか確かめる気にはならないな」
「私も遠慮しとく」
「お前は食べられないだろ」
「気分の問題ですー」
澪は口を尖らせ、それから別の花を覗き込んだ。物に触れられない彼女なら、うっかり毒草を摘む心配はない。その点だけは安心できるが、代わりに透の方が知らない植物へ近づかないよう気をつける必要があった。
水も食料もない状況では、見つけたものを片端から口に入れるわけにはいかない。今のところ空腹は我慢できる程度だが、喉の渇きは昨夜から続いていた。
せめて安全そうな水場が見つかればいい。
透が道の先を見ていると、頭上から乾いた羽音がした。
「わっ!」
澪が顔を上げる。
木の枝の間から飛び出してきたのは、鳥に似た生き物だった。ただし、翼は二枚ではない。大きな一対の下に、少し小さな翼がもう一組あり、四枚が互い違いに動いている。
灰色の身体が日差しを横切り、長い尾をなびかせて森の奥へ消えていった。
「……今の、見た?」
「見た。翼が四枚あったな」
「鳥って四枚だったっけ?」
「日本の鳥は二枚だ」
「だよね!?」
澪は飛んでいった方角を見つめている。
透も足を止めたまま、しばらく木々の上を確認した。鳴き声や飛び方から鳥に近い生き物だとは思えるが、あれがこの世界では珍しいのか、ありふれたものなのかさえ分からない。
もし普通の鳥だというなら、ここでの常識は日本のものと相当に違うことになる。
「すごいね、異世界」
「観光なら楽しかっただろうな」
「……うん。ちゃんと帰れるって分かってたら、もっと楽しめたかも」
澪はそう言ってから、透の横へ戻ってきた。
彼女の言う通りだった。見たことのない景色や生き物は興味深い。だが、帰る手段も生活の当てもない今は、何を見ても先に危険を考えてしまう。
透は再び歩き出した。
景色を楽しむのは、人のいる場所へ辿り着いてからでも遅くない。
◇
しばらく進むと、石畳は少しずつ途切れ始めた。
周囲の草が道へ張り出し、崩れた石が脇に積もっている。古い道筋を辿ってきたことは分かるが、この先も同じように続くとは限らなかった。
「透、こっちで合ってる?」
少し前にいた澪が尋ねる。
「多分な。まだ石が残ってる」
「でも、何かだんだん道っぽくなくなってない?」
「そうだな」
透は立ち止まり、周囲を見た。
無理に進めば森の中で方向を失うかもしれない。来た道を戻るなら今のうちだが、遺跡に戻ったところで水も食料もない。
進むにしても戻るにしても、判断材料が足りなかった。
「澪。少し上から見てくれ。森の切れ目がないか」
「任せて!」
「木より上に出ても、あんまり遠くへ行くなよ」
「分かってるってば」
澪は樹冠へ向かって浮かび上がり、枝葉の間をすり抜けていった。
透はその姿を目で追いながら、足元の石を確かめる。周囲には幅の狭い獣道のような隙間がいくつかあるが、人間が頻繁に歩いている形跡は見えない。
やがて、頭上から澪の声がした。
「透ー! あっち、木が少ない!」
彼女が戻ってきて、進行方向より少し右を指差す。
「どのくらい先だ?」
「そんなに遠くないと思う。空が広く見える場所があるよ」
「開けた土地かもしれないな」
「それと、何か細長い線みたいなのも見えた」
「線?」
「地面の上に。草がないところが、ずっと続いてる感じ」
道の可能性がある。
透は石畳の残る位置をもう一度確認した。ここから右へ進めば、一度は古い道を外れることになる。しかし、森の切れ目が本当にあるなら、そこから周囲を見渡す方が有利だった。
「案内してくれ。ただし、急がなくていい」
「了解!」
澪を先に行かせ、透は後を追った。
道のない場所では歩幅を小さくし、足を置く場所を一つずつ選んで進む。彼女は根や倒木をすり抜けられるが、透はそうもいかない。何度か澪に「こっちの方が近い」と言われたものの、そのたびに迂回を余儀なくされた。
「……幽霊って便利だな」
「ふふん。もっと褒めてもいいよ」
「俺が通れる道を探してくれたらな」
「要求が具体的!」
澪は笑いながらも、今度は透の足元を気にして進むようになった。
やがて木々の間が明るくなり、傾斜の緩い斜面へ出る。そこから少し下った先には、森を横切るように土の道が延びていた。
透は思わず足を止めた。
「……道だ」
「でしょ!」
澪が得意げに振り返る。
それまで辿ってきた石畳とは違い、こちらは土が踏み固められ、中央付近には草もほとんど生えていない。幅も十分にあり、人が継続して使っているように見えた。
透は斜面を慎重に下り、道の端へしゃがみ込んだ。
土の上には、二本の平行した窪みが残っている。
「これ……轍か」
「わだち?」
「車輪が通った跡だ。馬車みたいなものが通ってるのかもしれない」
澪が透の肩越しから覗き込む。
「あ、本当だ。ずっと続いてる」
轍の間には、蹄の跡に似た窪みもあった。少なくとも、ここを何らかの乗り物が通行しているらしい。
人がいる。
そう断定するにはまだ早いが、遺跡を出てから初めて、誰かの生活へ繋がりそうな痕跡を見つけた。
透は立ち上がり、道の両端を見比べた。
「どっちへ行く?」
澪が尋ねる。
「まだ決めるな。少し様子を見よう」
知らない道を歩き始めるより、通行する人間がいないか確認した方がいい。もし誰かが来れば、町や村の方向を尋ねられる可能性もある。
もっとも、言葉が通じるかどうかは別問題だ。
そう考えた時、森の向こうから微かな音が聞こえた。
乾いた、規則的な音。
続いて、車輪が土を踏むような低い響きが重なる。
「……透」
「ああ。聞こえてる」
二人は顔を見合わせた。
透は道の中央から外れ、木立のそばへ移動する。音が近づいてくる方向を確かめると、曲がり角の向こうに動く影が見えた。
やがて、木々の間から車輪のついた荷車と、それを引く大きな動物の姿が現れる。
荷台には幌が掛けられており、前方には手綱を握る人影があった。
「……馬車?」
澪が小さく呟く。
「そう見えるな」
少なくとも、人の使う道であることは間違いなさそうだった。
透は鞄の肩紐を握り直し、近づいてくる荷車を見つめた。こちらに気づいてもらうべきか、まずは様子を見るべきか。相手がどんな人物なのか分からない以上、慎重に判断する必要がある。
澪も口を閉じ、隣へ浮かんだ。
遠くから聞こえていた車輪の音が、少しずつ大きくなっていく。
見知らぬ世界へ来てから、初めて出会う人間かもしれない。
透は道の先を見据えたまま、相手の姿がはっきり見えるのを待った。
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