第3話 二つの月の下で➁
遺跡の調査を続けているうちに、透は建物の奥にいくつかの小部屋があることに気づいた。
どれも入口の扉は失われており、中には崩れた石や土が入り込んでいる。かつて何に使われていた部屋なのかは分からないが、少なくとも今の状態では住居として使えそうになかった。
透は一つずつ入口から内部を確認し、崩落が進んでいないか、危険そうな場所がないかを見て回った。
澪は壁を抜けて先へ行こうとしたが、透が止めるとすぐに戻ってきた。
「見てくるだけなのに」
「奥で何かあっても助けられないだろ」
「私、幽霊だよ?」
「だから何が平気で何が駄目なのか分からないんだよ」
透がそう返すと、澪は少し考えてから頷いた。
「……確かに」
普段なら自分の霊体を便利そうに扱っているが、そもそも彼女自身、幽霊として何ができるのか把握できていない。壁抜けや浮遊ができることと、どんな場所でも安全に移動できることは別問題だった。
「でも、透が入れない場所なら私が見てきた方がよくない?」
「それは状況によるな。少なくとも、今夜は別行動しない」
「了解です」
澪が妙にきびきびした返事をする。
「何だ、その言い方」
「隊長の命令だから」
「いつ隊長になった」
「さっき」
「なんだそれ。勝手に決めるな」
透は小さく息を吐き、調査を続けた。
その結果、入口から少し離れた場所に、比較的状態の良い一角が見つかった。
三方を石壁に囲まれ、天井も残っている。床には多少の埃や砂が溜まっているものの、大きな瓦礫はなく、壁にも目立った亀裂は見当たらなかった。
何より、中央の円形の床から離れている。
今夜はここで休むのがよさそうだった。
「ここ?」
「ああ。外よりは風を防げる」
「でも、硬そう」
「石だからな」
「布団ないもんね……」
澪は床を眺めた後、ふわりと浮かんでみせた。
「私は平気だけど!」
「便利でいいな」
「ふっふっふ。幽霊の特権です」
「食べられないのと引き換えなら、あまり羨ましくないけどな」
「そこを言わないでよ!」
澪が頬を膨らませる。
透は鞄を下ろし、中身を確認した。
大学で使ったノートと筆記用具。財布、スマートフォン、それから普段持ち歩いている細かな物がいくつか。非常用の荷物など用意しているはずもなく、食料も水もない。
日本にいた頃なら、少し歩けばコンビニが見つかった。
今はそれがどれほど恵まれていたことなのか、嫌でも分かる。
「……明日は水も探さないとな」
「お腹も空く?」
「いずれな。夕飯は食べたから、今すぐどうにかなるわけじゃないけど」
透は鞄を床の比較的平らな場所へ置き、上着代わりに使えそうなものがないか探したが、都合のいい物は入っていなかった。
今夜はこのまま横になるしかなさそうだ。
澪はその様子を見ながら、透の隣へ降りてきた。
「……ごめんね」
唐突な謝罪だった。
透が顔を上げると、澪は自分の手を見つめていた。
「私が変なことしなかったら、今頃ちゃんと部屋で寝られたのに」
透は少しの間、返事をしなかった。
彼女の言う通りではある。
止めたにもかかわらず、澪は勝手に憑依を試した。その結果、二人は見知らぬ場所へ飛ばされ、帰る方法どころか現在地さえ分からなくなっている。
腹が立っていないわけではない。
だが、ここへ来てからの澪は、普段なら真っ先に口にする冗談も減っていた。自分の失敗を軽く考えていないことは、言葉にしなくても分かる。
「帰れたら説教するって言っただろ」
「……うん」
「今はまず、帰る方法を探す。それからだ」
澪が顔を上げる。
「それ、説教は絶対あるってこと?」
「当然だ」
「うう……」
「嫌なら早く帰る方法を見つけような」
「何か目的が変わってない!?」
ようやく、いつもの調子が少し戻った。
透は鞄を壁際へ寄せ、その隣へ腰を下ろした。硬い石床へ体重を預けると、先ほど打った背中に鈍い痛みが走る。怪我の程度は大したことなさそうだが、寝心地まで期待するのは無理だろう。
「透、本当にここで寝るの?」
「他に場所がないからな」
「寒くない?」
「少し」
「私、何かできないかな」
澪はそう言って、周囲を見回した。
だが、毛布を運ぶことも、火を起こすこともできない。そもそも、この遺跡にそんな道具があるかも分からなかった。
透は壁へ背を預け、彼女を見る。
「今は近くにいてくれればいい。何か来たら起こしてくれ」
「……見張り?」
「ああ。眠くならないんだろ」
「任せて!」
澪は胸を張った。
「こういう時こそ幽霊の出番だね!」
「声は少し抑えろよ」
「分かってるってば」
透は軽く頷いた。
誰かが見張ってくれるというだけでも、少しは安心できる。もちろん、澪が危険なものに対処できるとは限らないが、何も知らないまま眠っているよりはましだった。
彼女も自分にできることが見つかったのが嬉しいのか、入口の方へ移動すると、真面目な顔で外を確認し始めた。
透はその姿を見てから、壁へ身体を預け直した。
◇
夜が深まるにつれ、遺跡の中は静かになっていった。
風の音と、遠くで聞こえる虫の声。
時折、木々の間から何かが動くような音もするが、少なくとも遺跡の中へ近づいてくる気配はなかった。
透はすぐには眠れず、膝を立てたまま周囲を眺めていた。
目の前には、見知らぬ石壁。
頭上には、崩れた天井の向こうから差し込む二つの月の光。
つい数時間前まで、自分の部屋で明日の講義資料を確認していたはずだった。
それが今では、何百年も放置されていそうな遺跡の中で夜を明かそうとしている。
現実感がない。
それでも、石床の硬さも、夜風の冷たさも、背中の痛みも確かに感じる。
夢なら、そろそろ覚めてほしいものだ。
「……透」
入口の方から澪が戻ってきた。
「何だ?」
「外は大丈夫そう。今のところ、変なのはいないよ」
「そうか。助かる」
澪は透の少し横へ移動し、空中で膝を抱えるような姿勢になった。
しばらく二人とも黙っていたが、やがて澪が口を開いた。
「……ねえ、透」
「今度は何だ」
「私たち、帰れるよね?」
透はすぐには答えなかった。
帰れる保証などない。
今のところ分かっているのは、二人が見知らぬ場所へ移動したことと、転移に関わっていそうな図形が遺跡へ残されていることだけだ。
ここがどんな世界なのかも、人が住んでいるのかも、まだ何一つ確認できていない。
それでも、今ここで諦める理由もなかった。
透は澪の方へ顔を向ける。
「……帰る方法は探す」
澪は静かに頷いた。
「うん」
その返事を聞いて、透は少しだけ目を細めた。
今夜は、これ以上考えても答えは出ない。
まずは明日、明るくなってから行動する。
そして、人のいる場所を探す。
帰る方法を調べるのは、それからだ。
透は壁へ背を預け、ゆっくり目を閉じた。
すぐ隣には、澪の気配がある。
触れることはできない。
それでも、ここにいると分かるだけで、完全に一人きりではないという感覚があった。
二つの月が照らす夜の下、透は見知らぬ世界で初めての夜を迎えた。
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日2〜3投稿を考えています。
もしよろしければ、また来ていただけると大変喜びます。
それでは、次の話で!




