第3話 二つの月の下で ①
遺跡を出て数十歩も進まないうちに、透は足を止めた。
目の前には、月明かりを受けて青黒く沈んだ森が広がっている。木々の間は暗く、地面の状態もよく分からない。背の高い草が足元を覆い、どこまでが道で、どこからがただの林なのかさえ判別できなかった。
遠くから虫に似た鳴き声が聞こえる。風が吹くたび、枝葉が擦れ合う音もした。日本の山中と大きく違うようには感じられないが、そう判断できるだけの知識が透にはなかった。
「……どうしたの?」
少し先へ浮かんでいた澪が振り返る。
「このまま進むのはやめた方がいい」
「えっ、何で?」
「道も分からないし、足元が見えない。何がいるかも分からないだろ」
透は背後の遺跡へ目を向けた。
石壁の多くは崩れているものの、建物の形はまだ残っている。少なくとも、森の中をあてもなく歩くよりは、周囲を確認しやすい場所だった。
先ほどはとにかく外の様子を確かめたくて歩き出したが、あのまま森へ入るのは軽率だ。二つの月がある時点で、ここが日本ではないことはほぼ間違いない。ならば、知っている森と同じ感覚で行動するべきでもないだろう。
「今夜は遺跡に戻る。明るくなってから人のいる場所を探そう」
「……そっか。確かに、暗いもんね」
澪は森の奥を振り返り、それから透の隣へ戻ってきた。
「でも、私なら先に見てこられるよ?」
「どのくらい離れても戻ってこられるか、分かるのか?」
「……分かんない」
「じゃあ、今はやめとけ」
澪は素直に頷いた。
普段なら何かしら言い返してきそうなところだが、今はそんな余裕もないのだろう。透としても、彼女を一人で行かせる気にはなれなかった。
それに二人の間には先ほどの憑依以来、妙な感覚が残っている。何が起きたのか分からないうちは、互いの姿が見える範囲にいた方がいい。
「戻るぞ」
「うん」
二人は来た道を引き返した。
遺跡の入口まで戻ると、透は一度立ち止まり、周囲を見回した。建物の外壁には蔦が絡み、崩れた石材の隙間から草が生えている。長い間、人の手が入っていないことは明らかだった。
それでも、地面には人工的に整えられた石畳が残っている。
ひょっとすると、昔はここへ続く道があったのかもしれない。
「……明日、これを辿れるか確認するか」
「何が?」
「石畳。森の方へ続いてるように見える」
澪が透の示した方向へ顔を向ける。
「あ、ほんとだ。途中で草に埋もれてるけど」
「少なくとも、完全な獣道よりはましだろ」
透はその位置を覚えてから、遺跡の内部へ戻った。
◇
建物の中は、外よりも少しだけ風が弱かった。
天井の一部が崩れているため、月明かりが床まで届いている。石柱の影は二つの月の光によって複雑に重なり、壁には奇妙な形が浮かんでいた。
透はスマートフォンのライトを点け、まず足元を照らした。
「おお、明るい!」
澪が横から覗き込んでくる。
「電池がもったいないから、必要な時だけな」
「あ、そっか。充電できないんだ」
「今のところは」
画面の隅に表示された電池残量を確認する。
日本にいた頃なら、残量が減れば充電器を挿せばよかった。だが、ここにはコンセントどころか電気そのものがあるかも分からない。
通信は圏外。地図も現在地を取得できない。
それでも、ライトとカメラ、それに保存してある情報はまだ使える。何の役にも立たないと切り捨てるには、手元の持ち物が少なすぎた。
「透、それ何撮ってるの?」
「遺跡。後で調べる時のために」
透はライトで照らしながら、壁に刻まれた模様を数枚撮影した。
崩れた柱や床の図形も、できるだけ位置関係が分かるように記録しておく。撮影したところで意味が分かるわけではないが、この場所へ戻れなくなる可能性を考えれば、何も残さないよりはいい。
「……何か、探偵みたい」
「ただの記録だ」
「でも、そういうの大事そうだよね」
「少なくとも、記憶だけよりはな」
撮影を終えた透はライトを消し、スマートフォンをポケットへ戻した。
それから改めて、転移直後に倒れていた場所へ向かう。
遺跡の中央付近には、周囲よりも少し低くなった円形の床があった。そこへ複雑な線が刻まれており、崩れた石材や土に覆われながらも、全体の形はある程度残っている。
先ほど目を覚ましたのは、その円の内側だった。
「……これだよな」
透は床を見下ろした。
自分の部屋で発生した光の図形。
複数の線が交差し、足元を中心に広がっていったあの光景は、今も鮮明に覚えている。
床に刻まれたものは、細部まで同じというわけではない。それでも、円の周囲を走る線の配置や、中心へ向かって集まる形には共通する部分があった。
「澪。部屋で見たやつと似てないか?」
「……うん。似てる」
澪も円の上へ移動し、下を覗き込んだ。
「これ、魔法陣みたいなものなのかな?」
「そうかもしれないな」
透には魔法陣の正しい形など分からない。
ただ、今の状況を説明するなら、そう考えるのが一番自然だった。澪が憑依した直後、自分の足元に光の図形が現れた。そして次に目を覚ました時には、似た模様のある遺跡へ移動していた。
偶然で片付けるには、少し出来すぎている。
「これを使えば帰れるのかな」
澪が期待を含んだ声で言った。
「可能性はある。でも、動かし方が分からない」
「そっか……」
透は円の端へしゃがみ込んだ。
刻まれている線は浅く、ところどころが欠けている。表面には土が溜まり、細い草の根が入り込んでいた。少なくとも、頻繁に使われている設備には見えない。
そっと石床へ指を当てる。
冷たい。
それだけだった。
先ほど身体の内側で感じた異様な冷気も、胸を圧迫するような感覚も起こらない。
「どう?」
「何もない」
「もう一回、私が中に入ったら動くとか?」
「やめろ」
「まだ最後まで言ってない!」
「言わなくても分かる」
透は顔を上げた。
「向こうで何が起きたかも分からないのに、ここでも同じことを試す気か?」
「……うっ」
澪が口を閉じる。
先ほどの憑依は、本人にも制御できていなかった。もう一度試して帰れるならいいが、さらに別の場所へ飛ばされる可能性だってある。
それ以前に、透の身体や意識へどんな影響が残るのかも分からない。
「手掛かりが増えるまでは触らない方がいい」
「……分かった」
澪は円の外へ移動した。
透も立ち上がり、周囲を確認する。
石柱の一部には、床とは別の模様が刻まれていた。文字らしいものもあるが、日本語でも英語でもない。見覚えのある文字体系と似ている部分を探してみても、意味を推測できるほどの共通点はなかった。
読めない以上、今は形を記録するしかない。
透はもう一度スマートフォンを取り出し、壁の文字も撮影した。
「ねえ、透」
その時、澪が少し離れた場所から呼んだ。
「何だ?」
「これ……何か変じゃない?」
澪は壁際に浮かび、ある模様をじっと見つめていた。
透が近づくと、そこには円の一部と、細い線が何本も重なった図形が刻まれている。周囲の模様と比べて特別な違いがあるようには見えない。
「どこが?」
「うまく言えないんだけど……見たことあるような気がする」
「部屋で見た光と?」
「ううん。そうじゃなくて、もっと前に……」
澪は言いかけて、困ったように眉を寄せた。
透は急かさず、彼女が続きを話すのを待った。
「……駄目。分かんない」
「何か思い出したのか?」
「思い出したっていうより、知ってる気がしただけ。形を見た瞬間、あれって思ったんだけど、何でそう思ったのか分かんなくて」
澪は自分の額へ手を当てた。
普段は明るく振る舞っている彼女も、記憶の話になると時折こういう顔をする。何かが引っかかったところまでは分かるのに、そこから先へ進めない。透にはその感覚を正確に理解できなかったが、今の表情から、本人も戸惑っていることくらいは伝わってきた。
「無理に思い出さなくていい」
「……でも」
「何か分かったら、その時に教えてくれ」
澪は少し黙った後、頷いた。
「うん。そうする」
透は彼女が見つめていた模様を撮影した。
その形に特別な意味があるのかどうかは分からない。ただ、澪が何かを感じたという事実まで、今ここで切り捨てる理由はなかった。
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日2〜3投稿を考えています。
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それでは、次の話で!




