第2話 女幽霊、大学についてくる⑦
足元に、淡い光が走った。
「……は?」
床の上へ、見覚えのない線が浮かび上がっている。
最初は小さな円だった。
それが透の足元を中心に広がり、複数の線が交差しながら複雑な図形を形作っていく。
透は反射的に一歩下がった。
しかし、光は足元へついてきた。
床に描かれているのではない。
透自身を中心として、何かが展開している。
『透!? 何これ!?』
「俺が聞きたい!」
光が強くなる。
机の上のノートやスマートフォンが照らされ、壁には複雑な影が浮かんだ。
透は咄嗟に鞄へ手を伸ばした。
何が起きているのか分からない。
だが、この場から逃げた方がいい。
そう判断して玄関へ向かい、なんとか靴を履いたところで足が止まった。
動かない。
床へ貼りつけられたわけではないのに、身体が前へ進まなかった。
胸の奥で、澪の存在が強く脈打つ。
『……っ!』
「澪!?」
返事はなかった。
代わりに、何かが頭の中へ流れ込んできた。
意味の分からない言葉。
見覚えのない図形。
遠くから聞こえるような、誰かの声。
それらが一瞬で通り過ぎ、透の意識へ触れたかと思うと、すぐに消えていく。
内容を理解する余裕はなかった。
ただ。
この光は、今ここで初めて生まれたものではない。そんな奇妙な感覚だけが残った。
ずっと前から待っていた何かが、今になってようやく動き出した。
根拠のない印象だったが、透にはそうとしか感じられなかった。
「……くそっ!」
透は力を込め、もう一度足を動かそうとした。
だが、光はさらに強くなる。
視界が白く染まり、部屋の輪郭が曖昧になっていく。
机。
椅子。
窓。
ついさっきまで見ていた自分の部屋が、薄い膜の向こうへ遠ざかるように感じられた。
『透……!』
澪の声がした。
今度は、はっきりと。
『ごめん……』
透は返事をしようとした。
だが、その前に。
足元の感覚が消えた。
◇
最初に感じたのは、冷たい空気だった。
次に、背中へ伝わる硬い感触。
透はゆっくり目を開けた。
暗い。
だが、完全な闇ではない。
頭上から淡い光が差し込み、周囲の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「……っ、痛……」
身体を起こそうとして、背中の痛みに顔をしかめた。
硬い石の上へ倒れていたらしい。
透は片肘をつき、慎重に上半身を起こした。
その動作の途中で、違和感に気づく。
さっきまで胸の奥にあった澪の存在が、少しだけ遠くなっている。
「……澪?」
声を掛ける。
返事はない。
透は周囲を見回した。
そこは、見覚えのない場所だった。
石造りの壁。
崩れた柱。
床には複雑な模様が刻まれており、その一部には、先ほど部屋で見たものと似た線が残っている。
建物というより、古い遺跡のようだった。
天井は一部が崩れ、そこから夜空が見えている。
透は立ち上がろうとして、足元に転がっている鞄へ気づいた。
反射的に手を伸ばしたものの、まずは身体を確認する。腕と脚は動くし、目立った怪我もなさそうだ。ただ、背中だけは石床へ落ちた時に打ったらしく、鈍い痛みが残っていた。
「……何なんだよ、これ」
自分の声が、石壁に反響する。
さっきまでアパートの居間にいて、澪が取り憑いて足元に光が現れた。
そして、気づけば見知らぬ遺跡に倒れている。
繋がりは分からない。
だが、少なくとも夢や幻覚で片付けるには、背中の痛みが妙に生々しかった。
「透……?」
背後から声がした。
振り返ると、澪がいた。
いつもの制服姿のまま、床から少し浮いた位置にいる。半透明の輪郭も変わらず、見た目だけなら普段と大差ない。
ただ、その表情にはいつもの元気がなかった。
「澪」
「……よかった」
澪は透の姿を確認すると、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「私、ちゃんと出られたみたい」
「みたいだな」
透は自分の胸元へ手を当てた。
さっきまでの異物感は消えている。
だが、完全に元通りとも言い切れなかった。
澪の気配が、以前よりも近い。
それでいて、身体の外にいることは分かる。
説明しようとしても言葉が見つからないが、彼女との間に何かが残っているような感覚だった。
「……ごめん」
澪が小さく言った。
透は顔を上げる。
「本当に、ちょっと試すだけのつもりだったの。こんなことになるなんて……」
少女は自分の手を見つめた。
半透明の指先が、僅かに震えているように見えた。
透はしばらく黙っていた。
腹は立っている。
やめろと言ったことを勝手に試したのだから、当然だ。
ただ、目の前の澪も今の状況を理解できていない。ここで怒鳴ったところで、元の部屋へ戻れるわけでもない。
それに、まず確認すべきことがある。
「怪我は?」
「……え?」
「お前は大丈夫なのかって聞いてる」
澪は目を丸くした。
それから、自分の身体を見回す。
「た、多分。痛くないし……そもそも幽霊だから怪我とかするのか分かんないけど」
「そうか」
透は頷き、床に落ちた鞄を拾った。
中身を確認すると、大学で使ったノートや筆記用具はそのままだ。スマートフォンもポケットに残っている。
少なくとも、手元にあった物は一緒に来たらしい。
もっとも、だからといって何が助かるのかは分からない。
「……怒ってる?」
澪が遠慮がちに尋ねた。
「怒ってる」
「……だよね」
「帰れたら説教する」
「うん……」
透は鞄を肩へ掛けた。
今はそれ以上、言う必要はない。
先にここがどこなのか調べるべきだった。
「とりあえず、外を確認するぞ」
「……うん」
透が歩き出すと、澪も少し遅れてついてきた。
崩れた柱の間を抜け、壁が途切れている場所へ向かう。
足元には細かな石が散らばっており、歩くたびに靴底が乾いた音を立てた。空気は冷たく、遠くから虫の鳴き声に似た音が聞こえる。
外へ出ると、周囲には木々が広がっていた。
街灯はない。
建物も見えない。
遠くに山のような影が連なっているだけで、人が住んでいる気配は感じられなかった。
透はスマートフォンを取り出し、画面を確認する。
圏外。
位置情報も取得できない。
時刻だけは表示されているが、それが今いる場所の時間と一致している保証はなかった。
「……どこ、ここ」
澪が呟く。
「分からない」
透も周囲を見回した。
日本の山奥へ突然移動したのなら、まだ理解できる部分もある。少なくとも、通信が届かない場所というだけなら珍しくはない。
だが。
目の前の遺跡は、日本で見慣れた建造物とは明らかに違っていた。
床や壁に刻まれた模様も、建築様式も、透の知識にはない。
それだけなら、海外の遺跡という可能性も残る。
ただし。
空を見上げた瞬間、その考えは消えた。
「…………」
澪も同じ方向を見ていた。
夜空には、二つの月が浮かんでいた。
一つは、透が知っている月とよく似た大きな白い月。
もう一つは、その少し離れた場所に浮かぶ、小さな青白い月だった。
雲の切れ間から差し込む二つの光が、崩れた石柱と草木を淡く照らしている。
透はしばらく、その光景を見つめていた。
見間違いではない。
空には確かに、月が二つある。
「……ねえ、透」
澪の声が震えていた。
「これって……」
「……ああ」
透は短く答えた。
ここがどこなのか、まだ分からない。
どうして来たのかも分からない。
ただ、一つだけはっきりした。
少なくとも、今まで暮らしていた世界ではない。
透は空から視線を戻し、隣に浮かぶ澪を見た。
少女もこちらを見ている。
その表情は不安そうだったが、透と目が合うと、僅かに口元を緩めた。
「……どうしよう」
「まず、帰る方法を探す」
透はそう答えた。
何の手掛かりもない以上、簡単なことではないだろう。
だが、立ち止まっていても状況は変わらない。
まずは安全な場所を探す。
次に、人がいるか確かめる。
そして、ここがどこなのか調べる。
やるべきことを順番に考えていけば、少なくとも何も分からないまま動くよりはましだ。
透はもう一度、頭上の二つの月へ目を向けた。
現実感のない光景だった。
だが、足元の石の硬さも、夜風の冷たさも、背中の鈍い痛みも、すべて現実のものとして身体へ伝わってくる。
どうやら、夢から覚めるのを待つわけにはいかないらしい。
「行くぞ、澪」
「……うん」
透が歩き出すと、澪も隣へ並んだ。
二つの月が照らす夜の下、二人は見知らぬ遺跡を後にした。
読んでいただきありがとうございます!
今のところ1日2〜3投稿を考えています。
もしよろしければ、また来ていただけると大変喜びます。
それでは、次の話で!




