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第2話 女幽霊、大学についてくる⑥


 アパートへ戻る頃には、夕日は建物の向こうへ沈み、辺りには夜の気配が漂い始めていた。


 透は階段を上がりながら、今日一日の出来事を思い返す。


 朝から女幽霊を連れて大学へ行き、講義中には筆談をする羽目になり、帰りには苺のパフェまで食べた。普段なら講義が終わればそのまま帰宅するところだが、今日は随分と寄り道をしたものだ。


 もっとも、澪は楽しんでいたらしい。


 帰りの電車でも大学の話をしていたし、今も隣で今日見たものをあれこれ口にしている。自分には見慣れた景色でも、彼女にとっては新鮮なものが多かったのだろう。


「ねえ、透。大学って明日もあるんだよね?」


「ああ」


「じゃあ、明日も行っていい?」


「毎日ついてくる気か?」


「駄目?」


「講義中に騒がなければな」


「分かった! 今度こそ静かにする!」


 その言葉は今朝も聞いた気がする。


 透は苦笑しながら鍵を取り出し、玄関の扉を開けた。


 澪は先に壁をすり抜け、室内へ入っていく。


「ただいまー!」


「俺の部屋なんだけど」


「一緒に帰ってきたんだからいいじゃん」


「まあ、そうだけどな」


 靴を脱いで居間へ入ると、澪は室内を一周し、窓際でくるりと振り返った。


「やっぱり落ち着くね、ここ!」


「住み始めて二日くらいだろ」


「時間は関係ないの!」


 勝手に住み着いた側が、すでに我が家のような顔をしている。


 ただ、昨日までは透一人しかいなかった部屋に、こうして帰宅を喜ぶ相手がいるのは不思議な感覚だった。


 同居人が幽霊でなければ、もう少し普通に受け入れられたのかもしれない。


 いや、普通の女子高生が突然居候を始める方が、社会的には問題が大きいだろう。


 透は鞄を置き、上着を脱いだ。


「それで?」


「何が?」


「帰ったら試したいことがあるって言ってただろ」


「あっ、覚えてたんだ!」


「忘れるには時間が短すぎる」


 帰り道からずっと気になってはいた。


 澪が考えていたのは、単なる怖がらせ方ではないらしい。今日、触れられないことを改めて確かめた後から、妙に考え込んでいた。


 物に触れられない幽霊ができること。


 壁抜けや浮遊以外に何があるのか。


 透も考えてみたが、思いつくのは怪談でよく聞くような話ばかりだった。


「ふっふっふ」


 澪は得意げに笑いながら、透の前へ浮かんできた。


「実はね、私、すごいことに気づいちゃったんだよ」


「その前置きでまともな話だった試しがないな」


「まだ二日くらいしか一緒にいないでしょ!?」


「十分な実績だろ」


「うるさい!」


 澪は頬を膨らませた後、気を取り直すように胸を張った。


「透。幽霊といえば、何だと思う?」


「昨日からずっとその話だな」


「いいから答えて!」


「壁を抜ける。空を飛ぶ。人を怖がらせる」


「最後のはもういい!」


「自分の活動方針だろ」


「そうだけど!」


 澪は少し悔しそうにしたものの、すぐに笑みを戻した。


「それ以外にもあるでしょ。幽霊が人間にすること!」


 透は腕を組み、彼女を見た。


 怪談や映画の知識を探れば、候補はいくつかある。


 物音を立てる。


 誰かの夢へ現れる。


 人間へ災いをもたらす。


 だが、澪は物に触れられないし、今のところ他人へ干渉できた様子もない。人を怖がらせることにさえ苦戦しているのだから、突然高度なことができるとも思えなかった。


「……憑依とか?」


「それ!」


 澪が勢いよく指を差した。


 当たってしまったらしい。


「人に取り憑くやつ! 幽霊って、そういうことできるんじゃない?」


「できるのか?」


「分かんない!」


「分からないのかよ」


「だから試すんでしょ!」


 自信満々に言われても困る。


 透は澪を見つめ、少し考えた。


 憑依というものが実際に存在することは知っている。昔から霊が見えていたせいで、普通の人間なら信じないような出来事にも何度か遭遇してきた。


 ただし、目の前の少女に同じことができるかは別問題だ。


 これまで彼女は、物体にも人間にも触れられなかった。腕へ手を伸ばしても、そのまますり抜けるだけだったはずだ。


「俺に取り憑くつもりか?」


「うん!」


「却下だろ俺の身体だぞ」


「ちょっと試すだけじゃん!」


「ちょっとで済む保証は?」


 澪が口を閉じた。


 本人も、そのあたりまでは考えていなかったらしい。


 透は上着を畳みながら続ける。


「そもそも、取り憑いたらどうなるか分かってるのか?」


「えっと……身体を動かせる?」


「それ、俺はどうなるんだ?」


「……中にいる?」


「お前、何も分かってないだろ」


「だって幽霊初心者だもん!」


「初心者ならなおさらやめろ」


 澪は不満そうに頬を膨らませた。


 透としても、彼女の好奇心そのものを否定するつもりはなかった。自分に何ができるのか分からない状態なら、試してみたくなるのは自然だろう。


 ただ、今回の相手は人間の身体だ。


 失敗して物が壊れる程度ならともかく、意識や身体の主導権に関わることなら、軽い気持ちで試すべきではない。


「じゃあ、どうやって確かめればいいの?」


「少なくとも、俺を実験台にするな」


「他に相手いないじゃん」


「だからといって俺になる理由はない」


「透しか私のこと見えてないのに……」


 澪はそう言って、少しだけ肩を落とした。


 昼間、大学から帰る途中にも似たような表情を見た。


 自分が物に触れられないことを確かめた時だ。


 透は上着を置き、改めて澪を見る。


 彼女にとって、できることを増やしたいという気持ちは単なる遊びではないのかもしれない。自分が何者なのか分からず、普通の人間には話しかけることさえできない。そんな状況で、自分の能力くらい知りたいと考えるのは不思議ではなかった。


 ただ、それでも憑依は話が別だ。


「調べてからにしろ」


「調べる?」


「ああ。やり方も分からないんだろ」


「……そうだけど」


「なら、まずはそこからだ」


 澪は少し考えた後、納得したように頷いた。


「分かった。じゃあ調べよう!」


「今から?」


「うん!」


 どうやら今夜の予定が一つ増えたらしい。


     ◇


 夕食を済ませた後、透はスマートフォンで幽霊の憑依について調べていた。


 澪はその横へ浮かび、画面を覗き込んでいる。


 当然ながら、出てくるのは怪談や創作作品、心霊関係の体験談ばかりだった。参考になりそうなものもあるが、どこまで信用していいのか分からない。


「へえ、取り憑かれると性格が変わるんだって」


「話によるな」


「身体を乗っ取るとかもあるらしいよ」


「だから却下したんだろ」


「でも、ちょっと面白そう」


「俺にとっては全然面白くない」


 澪は笑いながら画面へ顔を近づけた。


 透は別のページを開き、説明を読み進める。


 霊が人間の身体へ入り込み、意識へ干渉する。


 文章にすれば簡単だが、実際にどうやって行うのかは曖昧だった。相手を弱らせる、意識の隙を突く、霊的な相性が必要など、内容も記事ごとに違っている。


 そもそも幽霊の存在すら一般には証明されていないのだから、手順書のようなものを期待する方が間違っている。


「ねえ、透」


「何だ」


「これって、私がアンタの中に入ればいいんじゃない?」


「何をどうやって?」


「ほら、身体はすり抜けられるでしょ?」


 澪はそう言って、自分の手を透の腕へ重ねてみせた。


 指先は何の抵抗もなく服と腕を通り抜ける。


 透にも、触れられた感覚はなかった。


「こうやって、もっと深く入れば……」


「ただ通り抜けるだけじゃないのか」


「やってみないと分かんないじゃん」


「だから勝手にやるなって」


「分かってるよ!」


 澪は手を引っ込めた。


 だが、目はまだ透の身体へ向いている。


 どうにも諦めきれていないらしい。


 透はスマートフォンを机へ置いた。


「少なくとも、今日はやめとけ。試すにしても方法が分かってからだ」


「むう……」


「そんな顔しても駄目だ」


「透って、変なところだけ慎重だよね」


「変なところじゃないだろ」


 人間の身体を使う実験なのだから、慎重になるのが普通だ。


 透はそう考えながら、空になった食器を片付けるため立ち上がった。


 その背後で、澪が小さく何かを呟いた。


「……でも、ちょっとだけなら」


 透は振り返った。


「澪?」


「えっ?」


 少女は慌てて顔を上げる。


「今、何かする気だっただろ」


「し、してないよ?」


「分かりやすいな」


「してないってば!」


 透はしばらく澪を見つめた後、軽く息を吐いた。


「頼むから勝手に試すなよ」


「……うん」


 返事は少し遅かった。


 嫌な予感がしたが、これ以上言い聞かせても仕方がない。澪もこちらが本気で嫌がることは避けようとするし、先ほどの話も理解したはずだ。


 透は食器を持ってキッチンへ向かった。


     ◇


 食器を洗い終えた頃には、時計の針は午後九時を過ぎていた。


 透は水気を拭き取り、明日の講義資料を確認するため居間へ戻った。


 澪は窓際に浮かんでいる。


 さっきまでの騒がしさが嘘のように静かだったが、こちらへ視線を向けると、何やら意味ありげに笑った。


「……なあ」


「何?」


「まだ諦めてないだろ」


「えへへ」


「笑って誤魔化すな」


 透は鞄からノートを取り出し、机へ置いた。


 明日は午前から講義がある。今夜は早めに寝ておきたいし、澪の実験に付き合う気もない。


「もう寝る準備するからな」


「分かった」


「本当に?」


「分かったってば!」


 その返事を聞き、透は机へ向き直った。


 次の瞬間だった。


 背後から、澪の声がした。


「……じゃあ、ちょっとだけ」


「おい――」


 振り返るより早く、身体の内側を冷たいものが通り抜けた。


 何かが背中へ触れたわけではない。


 服にも、肌にも、何の感触もなかった。


 それなのに、胸の奥へ突然冷気を流し込まれたような感覚が走り、透は反射的に机へ手をついた。


「っ……!?」


 視界が一瞬だけ揺れる。


 耳の奥で、低い音が鳴った。


 身体が冷たい。


 いや、違う。


 冷えているのは身体ではなく、もっと内側の、普段なら意識することすらない部分だった。


「澪……何、した……?」


 透が声を絞り出す。


 返事は、すぐ近くから聞こえた。


『えっ……?』


 いつもの声だった。


 だが、耳から聞こえたようには感じられなかった。


 頭の中へ直接届いたような、奇妙な響きだった。


『透? 聞こえる?』


「……聞こえてる」


『え、何これ!? 私、入れたの!?』


 透は机へ手をついたまま、身体の状態を確かめた。


 腕は動く。


 足も動く。


 意識もはっきりしている。


 ただ、自分の身体の中に、明らかに自分ではない何かが存在していた。


 それが澪なのだと、考えるより先に分かってしまう。


「……出ろ」


『えっ?』


「今すぐ」


『あ、うん! ちょっと待って!』


 澪の声が慌てる。


 その直後、胸の奥で何かが引っ張られるような感覚がした。


 しかし。


 変化はなかった。


『……あれ?』


「澪?」


『ちょっと待って。今、出ようとしてるんだけど……』


 透は背筋に嫌なものが走るのを感じた。


 冗談では済まない。


 澪は本当に取り憑いたらしい。


 しかも、本人の意思で出られない。


「どういうことだよ……」


『分かんない! いつもみたいに動こうとしてるのに、何か引っかかって……!』


 透は机から手を離し、ゆっくりと身体を起こした。


 倒れるほどではない。


 だが、胸の奥にある異物感は消えなかった。


 自分の呼吸と心臓の鼓動の間に、別の何かが重なっているような感覚。


 澪の存在が、身体の中心へ絡みついている。


 そんな説明しかできなかった。


「……だからやめろって言っただろ」


『ご、ごめん……』


 いつもの調子なら、ここで何か言い返してくるはずだった。


 だが、返ってきた声は小さい。


 澪自身も異常を感じているのだろう。


 透は一度目を閉じ、呼吸を整えようとした。


 落ち着け。


 まず状況を確認する。


 身体は動く。


 意識もある。


 澪の声も聞こえる。


 なら、今すぐ命に関わる状態とは限らない。


 そう判断しかけた時だった。

読んでいただきありがとうございます!

今のところ1日2〜3投稿を考えています。

もしよろしければ、また来ていただけると大変喜びます。

それでは、次の話で!

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