第3話 異世界のルールと神秘の力
僕が、最初に《全知の書》を呼び出したのは、少し前に遡る。
そこへ至るまで、自分でも説明しづらい虚しさを抱えていた。
異世界へ来た。
八十年を費やした願いは叶った。
それなのに、毎日は土壁の家と井戸の往復で過ぎていく。身体は二歳児で、歩けば転び、排泄さえ思うようにならない。魔法も冒険も、柵の外にある森も、何も見えなかった。
いつの間にか僕は、異世界で何をするかではなく、異世界へ行くことだけを目標にしていたのだろう。入口を探すことが人生になり、辿り着いた先に何をしたかったかなんて忘れてしまっていた。
夢が叶ったあとに残ったのは、目的を失った空白だった。虚無だ。
その日も、歩く練習の途中で足をもつれさせた。
土の床が顔へ近づき、肩から落ちる。
「アンリ!」
セレナが駆け寄り、僕を抱き上げた。服についた土を払い、膝や額を確かめる。
「痛かった? どこか打った?」
「だいじょうぶ」
痛みより、思うように動かないことが悔しかった。
涙が滲む。
セレナは痛くて泣いたと思ったらしい。慌てて頬を拭い、何度も頭を撫でてくれた。
「大丈夫よ。今日は昨日よりたくさん歩けたもの」
僕は彼女の肩へ手を置き、自分の足で立った。
膝が震えたが、倒れなかった。
「ほら。立てた。偉いわ、アンリ」
自分のことのように喜ぶ顔を見て、息を吐いた。
前世の目標は終わった。
だが、アンリとしての人生は始まったばかりだ。
何をするかは、これから決めればいい。
ある時、誰もいない部屋の中で、異世界小説で何度も読んだ言葉を、半ば冗談のつもりで口にした。
「ステータスオープン」
何も起こらない。
やはり現実は、物語ほど都合よくできていないらしい。
そう思った時、目の前に光が集まった。
七色の粒子が渦を巻き、一冊の本を形作る。
図鑑ほどもある分厚い本だった。濃紺の表紙には宝石のような石が埋め込まれ、淡い光が脈打っていた。表紙の文字は、この世界の言葉とも違っていた。それでも意味だけが、最初から知っていたかのように頭へ浮かぶ。
《全知の書》と。
「どうしたの?」
急に、部屋にセレナが入ってきたので、慌てて僕は本を隠そうとした。けれど、間に合わなかった。するとセレナが首を傾げた。彼女の視線は、本を通り抜けて僕の手元へ向いているようだった。見えていない。安堵しながら僕は返事をした。
「ねむい」
「あら。お昼寝する?」
「うん」
藁の寝床へ潜り込み、布を頭までかぶった。布の中で本を開くと、頁がひとりでにめくれていく。
『アンリ』
種族:半神
Lv26
HP 226 MP 326
VIT 0 STR 0 DEX 10 AGI 0
INT 100(105) MND 0
ユニーク技能:《全知》Lv20
《全知》付随技能:《探知》Lv20/《魔力探知》Lv20/《解剖学》Lv20/《動物学》Lv20/《獣医学》Lv20/《鑑定》Lv20/《開錠》Lv20/《罠解除》Lv20/《毒知識》Lv20
所持技能:野営Lv5/人族共通語Lv1
数字の意味は、おおよそ想像できた。
だが、二歳児の能力値としては明らかにおかしい。
何より目を引いたのは、種族だった。
「半神……?」
人ではなく、半分が神。
冗談にしても笑えない。
頁をめくると、能力値の説明が文字として現れた。
Lvは、習得している技能レベルの合計。高いHPとMP、DEXとINTは、《全知》と、それに付随する技能の影響だという。
付随技能という言葉に意識を向けると、頁の文章が書き換わった。
《全知》を成立させるため、必要となる知識および知覚に関する技能は、生来無条件で付与される。なぜなら全てを知る者が、目の前の生物を鑑定できず、毒を識別できず、周囲の存在を捉えられない。それでは《全知》という権能そのものが矛盾する。
その整合性を保つため、《探知》や《鑑定》をはじめとする技能が、僕自身の修練とは無関係に最初から備わっているらしい。
しかも種族が半神へ調整されているため、《全知》と付随技能は、いずれもLv20だった。
ちなみに技能のレベルの指標はこんな感じらしい。
技能Lv1~2:初級。
技能Lv3~5:中級。
技能Lv6~8:上級。
技能Lv9:超級。
技能Lv10:人類の到達点。
技能Lv11以降は叙情詩にでてくる英雄や、伝説上の人物とみなされるほどの実力になり、Lv20で神に手がかかる半神級の実力となるそうだ。
さらに読み進める。
《全知》
神の権能の一つ。《全知の書》を媒介とし、過去、現在、未来、および世界に存在する情報を知る。
指が止まった。
頁に浮かぶのは、声でも映像でもない。問いに対する答えが、文字の列として記されていく。
世界のあらゆる情報を文章として知る。
書かれている通りならこの本は単なるステータス表示ではない。この世界そのものの攻略本だ。
どうすれば魔法を覚えられるか。
どこに都市があるか。
危険を避けるには何が必要か。
正しい問いを持てば、答えはここへ現れる。
逆に言えば、疑問を持たなければ答えは記されない。知識が無限にあっても、何を調べるべきかを決めるのは僕自身だった。
胸が高鳴る一方で、背中に冷たいものが走る。
人間が持ってよい力とは思えなかった。
なぜ僕にある。
そう考えた瞬間、文字が消え、白紙の上へ、新しい文章が浮かび上がる。
『この世界の外を認識できる人間は存在しない』
短い一文から始まり、説明が続いた。
『世界は、自分だけを唯一の世界として成立させている。別世界の存在を知覚し、ここが「異世界」であると認識できるのは、本来なら神だけである』
前世の記憶を持つ僕は、その法則から外れている。
すなわち、この本によると、矛盾した存在をこの世界の内側に置くため、世界は僕へ神の権能《全知》を与え、種族の半分を神へ調整した。異世界を知っているから、異世界を知っていてもおかしくない権能を与えられた。
八十年の執念が、思いもよらない形で報われたことになる。
本を閉じかけ、もう一度開いた。
文字は変わらず残っている。
これがあれば、村を出られる。
魔法を学べる。
この世界を、自分の足で旅できる。
けれど、未来まで知る力が、本当に僕を自由にするのか。
その疑問だけは、まだ本へ尋ねなかった。




