第2話 異世界での誓い
転生したばかりのころは、目に入るものすべてが珍しかった。
土を固めただけの床。藁を編んだ敷物。泥を塗り重ねた壁。戸口には木の扉さえなく、獣の革でのれんのように入り口を塞いでいるだけだった。風が吹く度に革は揺れていた。
家の中だというのに、人が歩くたびに細かな土埃が舞い、鼻の奥がむずむずする。前世の僕が若かった頃なら耐えられなかったかもしれない。だが人生の後半は、異世界の入口を探して山や荒野へ入り、野宿を繰り返していた。この家には雨をしのぐ屋根があり、火があり、眠る場所もある。それに比べれば、まだマシなほうだった。
問題は、言葉だった。
白髪の女と青髪の男が何を話しているのか、初めは一言も分からなかった。僕は声と表情を結びつけ、同じ言葉が使われる場面を覚えた。
セレナ。
モンド。
そして、アンリ。
それが、この世界での母と父と、僕の名前だった。
言葉を覚えるころには、二年が過ぎていた。
歩き始めた僕を、二人は大げさなほど喜んだ。転べばセレナが駆け寄り、言葉を一つ覚えればモンドが近所へ言いふらした。
愛されている。
その実感はあった。
ただ、愛されていると理解できることと、二人を自分の両親として受け入れられることは別だった。僕には八十年分の記憶がある。この家で生まれ、何も知らないまま二人の腕へ抱かれた子供ではない。
だから僕は、二人を名前で呼んだ。いつの日か、二人を父と母と呼べる日がくるのかもしれないが、今はまだ難しかった。
「またゴブリンが出たらしいぞ」
戸口の外で、通りかかった男たちが話していた。その単語に反応して、僕は革の隙間から道を覗いた。
「アンリ。外へ出ちゃ駄目よ」
背後からセレナの声が飛んでくる。
「ここまでならいい?」
「ゴブリンは柵の外にいるの。見えなくても危ないのよ」
まだ複雑な文章はうまく作れない。僕は「うん」と返し、家の中へ戻った。
ゴブリン。
やはり、ここは地球ではない。
胸が高鳴った。
けれど、その興奮は長く続かなかった。
*
夜明けの鐘で目を覚ました。
固い床に藁を敷いただけの寝床は、二年たっても身体に馴染まない。背中を伸ばすと、幼い身体が小さくほぐれる。隣でセレナが起き、長袖の下着の上から袖なしの服を重ねて着た。モンドはまだ寝息を立てていた。
「あら。もう起きたの?」
「うん」
「今日も一緒に来る?」
「いく」
セレナが水桶を持つ。
僕は彼女の後を追って、朝の村へ出た。
空気は冷たく、踏み固められた道には昨夜の霜が残っていた。家々の煙突から細い煙が上がり、遠くで斧の音が響いている。
村を囲む柵の向こうには、濃い森が広がっていた。
木々は朝靄の奥で黒く重なり、どこまで続いているのか分からない。丘の上には見張り台があり、槍を持った男が森を見つめていた。
『魔の森』
村人たちは、そう呼んでいた。
井戸で桶を満たすと、セレナは両手で持ち上げた。水の重みで肩が沈む。僕は桶の底へ手を添えた。力になっていないことは分かっていた。それでも、何もしないで見ているよりはよかった。
「がんばって」
「ふふ。アンリは優しい子ね」
セレナの笑顔を見ると、少しだけ居心地が悪くなった。
僕はこの人の息子なのか。
答えはまだ出せない。
朝食は、硬いパンと野菜を煮ただけの薄いスープだった。塩気もほとんどない。口へ運ぶたび、前世で食べた肉や魚の味が浮かぶ。
不味い。
だがセレナが早朝から水を汲み、火を起こして作ったものだ。
僕は黙って飲み込んだ。
食後、モンドは斧を担いだ。
「今日は北側を拓く。日が暮れる前には戻る」
「気をつけてね」
セレナと一緒に彼を見送った時、道の向こうを六歳ほどの子供が歩いていった。小さな肩に鍬を担ぎ、大人の後を必死についている。
「えらいな」
「何が?」
「ちいさいのに、しごと」
「あなたも、あのくらいになったらパパのお仕事を手伝うのよ」
セレナは不思議そうに瞬いた。
僕は子供の背中、そしてモンドが消えた方角へ視線を移した。
「ぼくも?」
「子供は親の仕事を継ぐものだから」
「ずっと?」
「十二歳の神託で決まるけれど、この村では親と同じ職を授かることがほとんどね」
六歳から斧を持ち、十二歳で木こりになり、そのまま一生を終える。それがこの世界の常識らしい。
僕は絶句した。
異世界へ来た。けれど、僕の世界はこの小さな村の柵の中だけで閉じようとしている。
「アンリは、パパの仕事が嫌なの?」
セレナの声には、わずかな不安が混じっていた。
モンドを否定したいわけではない。彼のまめだらけの手の平も、毎朝斧を担ぐ背中も、僕たちを養うためのものだと知っている。
この村も嫌いではなかった。
セレナの手の温かさも、モンドの不器用な笑い方も、すでに無関係ではない。
それでも。
「いやだ」
僕は答えた。
セレナの顔が曇る。
「そう……。でも、神託での職業は神様がお決めになることだから」
神が決めた職業。
親から受け継ぐ生き方。
森に囲まれた村。
たとえそうだとしても、八十年かけて辿り着いた異世界を、ここだけで終わらせるつもりはなかった。
魔法を見たい。知らない都市を歩きたい。自分の知らない世界を、自分の足で確かめたい。
そのためには、村を出る力がいる。
そして僕には、それを得る方法があるかもしれなかった。
「ステータスオープン」
小さく呟く。
空中に七色の光が集まり、一冊の本の形を取った。
表紙に刻まれた文字を、僕は読めないはずなのに理解できた。
《全知の書》
そして、その最初の頁には一行だけ記されていた。
ユニーク技能――《全知》。
と。




