序章② 異世界への遠い道のり
社会人になってから、異世界小説を読む時間は減った。
代わりに開くようになったのは、地方史や民俗学の本、古い新聞記事、行方不明者の記録だった。
神隠し。
天狗隠し。
山へ入ったまま戻らなかった猟師。家族の目の前で姿を消した子供。数十年後、失踪した時と変わらない姿で見つかったという女。
誘拐や事故、家出として説明できるものがほとんどだった。
残ったわずかな不可解さを、僕は異世界へ結びつけた。
根拠などなかった。
そうであってほしいという願いを、調査という形に変えただけだった。
平日は働き、夜は資料を読んだ。
休日になると、噂の残る土地へ向かった。
山奥の祠。海辺の洞窟。廃線になったトンネル。地図から消えた集落。
最初の数年は旅行の延長だった。
知らない土地へ行くこと自体が楽しく、何も起こらなくても笑って帰れた。
五年を越えるころには、帰路の足取りが重くなった。
十年目、国内で調べられる最後の場所へ立った時、笑う余裕は残っていなかった。
山中の古いトンネルだった。
入口には蔦が垂れ、昼間でも内部は墨を流したように暗い。吹き抜ける風が湿った土と苔の匂いを運んでくる。入ったっきり、戻ってこなかった子供の話しが、ここにはあった。
僕は懐中電灯を手に、反対側まで歩いた。そして入口に戻る。
何も起きなかった。戻ってきた靴の裏には泥が付いていた。それだけだった。
スマートフォンで入口を撮影し、長く続けてきたSNSへ投稿する。
『最後の候補地を確認しました。ここも異世界にはつながっていなかったようです』
すぐに反応がついた。
『まじか』
『ここは期待してた』
『お疲れさまでした』
誰も嘲笑しなかった。半分は冗談だとしても、僕と同じように「どこかにあってほしい」と考える人たちがいた。だが、この日、すべての候補は尽きた。
恋愛もせず、休みのたびに出歩き、貯金もほとんどない。三十を過ぎた自分が、暗いトンネルの前に一人で立っている。
ここで終わるべきなのかもしれなかった。
通知音が鳴った。
調査を通じて知り合った人物からのメッセージだった。
『日本になければ、次は海外ですね』
僕は目を見開いた。
その人は半ば冗談だったのかもしれない。
けれど、僕はその一文を何度も読み返した。
入口が日本にあると、誰が決めた。
顔を上げると、トンネルの向こうに午後の光が細く差し込んでいた。
僕は泥の付いた靴で一歩踏み出した。
*
海外へ行くには金が必要だった。
それから僕は、仕事への向き合い方を変えた。避けていた大きな案件に手を挙げた。資格を取り、部下を育て、責任を引き受けた。休日を潰して働くことさえあった。
周囲には、ようやく仕事に目覚めたと思われていた。
けれど、違う。
僕が欲しかったのは肩書きではなく、老後に世界中を歩くための資金と時間だった。
十年後には経営側へ回った。
結婚を勧められ、お見合いの話もいくつか持ち込まれたが、断った。
家庭を持つことを嫌っていたわけではない。ただ、異世界を探す人生に誰かを巻き込む覚悟がなかった。
退職の日、部下たちから花束を渡された。
泣いてくれた者もいた。
自分が思っていたより、多くの人間と関わってきたのだと、その時になって知った。
それでも翌朝、僕は空港へ向かった。
欧州の森を歩いた。中国の山岳地帯へ入り、南米の遺跡を訪れた。米国では、先住民に伝わる異界の入口を追った。
何年たっても、見つからなかった。
八十歳になった年、僕はアメリカ南部の荒野を車で走っていた。夕陽に焼かれた岩山が、地平の先まで連なっている。乾いた風が窓を揺らし、車内には砂の匂いが入り込んだ。
この土地には、日没後に黒い霧が現れるという伝承があった。霧に呑まれた者は、二度と戻らないそうだ。
山の麓へテントを張り、待った。
一日目は何も起こらなかった。
二日目も、三日目も同じだった。
それから数日がたち、食料が底をつきかけ、翌朝には町へ戻ろうと決めた夜だった。
胸の奥で、何かが破裂した。
息が止まった。
指先から力が抜け、膝が地面へ落ちる。乾いた砂をつかんだが、身体を支えられない。
心臓だ。
心臓が動いていない。
まずい。
息ができない。
死ぬ。
その言葉だけが、ひどく鮮明に浮かんだ。
「……まだだ」
声にならなかった。胸を押さえて転がる。視界の端から色が失われていった。
八十年。
どれだけ歩いても、入口は見つからなかった。せめて、この場所がそうだったのかだけでも知りたい。
地面へ頬をつけた時、砂の隙間から黒いものが滲み出した。煙ではない。夜よりも濃い霧が、音もなく足元を覆っていく。
ようやくか。
ただの霧か。
異世界への入口か。
そう思ったのか、間に合ったと思ったのか、自分でも分からなかった。
意識が遠のく中、女の声が聞こえた。
「あなたの一生に、感服いたしました」
耳元ではない。
頭の内側へ、静かな声が直接響いた。
「ここを異世界への入口ということにして差し上げましょう」
冗談のような言葉だった。
それでも僕は、笑った気がした。
黒い霧が視界を満たし、八十年の人生が途切れた。




