序章① 異世界への遠い道のり
本作は、過去に別名義で執筆・投稿した作品を、現在の構想と文体で全面的に改稿したものです。
物語の核となる設定や登場人物を残しながら、構成、描写、人物の感情、世界観の整合性を一から見直しています。
過去作を読んでくださった方にも、今回初めて触れる方にも、新しい物語として楽しんでいただければ幸いです。
ぼくは、いせかいしょうせつが好きです。
そこでは、みんながまほうをつかえます。
すごいちからをもらって、わるいまものをたおします。
ぼくもいつか、いせかいに行ってみたいです。
丸みを帯びた鉛筆の字を、しばらく目で追った。
机と壁の隙間から引っ張り出した紙は、端が黄ばみ、何度も折られた跡が白く毛羽立っていた。小学三年生のころに書いた読書感想文だ。
「……まだ残ってたのか」
大学進学を前に、部屋はダンボール箱で埋まっていた。窓を開けても、二月の冷気と埃の匂いが混じるだけで、片づけは一向に進まない。
それでも僕は床にしゃがんだまま、その紙を捨てられずにいた。
当時の僕は、異世界を疑っていなかった。
物語に書かれているのなら、地球のどこかに入口がある。魔法を使う国も、空を飛ぶ竜も、まだ見つかっていないだけだと信じていた。
父は感想文を読んで吹き出した。母は困ったように笑った。
「異世界は、お話の中にあるものよ」
「でも、毎年クリスマスにはサンタクロースが来ているよ?」
僕が首を傾げると、二人は顔を見合わせた。それから妙に真剣な顔で答えた。
「サンタクロースはいるよ」
当時、子供の僕には、その違いが分からなかった。
サンタクロースがいるのなら、異世界だってあるはずだ。
感想文を学校へ提出した翌週、紙は廊下に落ちていた。先生が落としたらしかった。拾ったのは、何かにつけて僕をからかう同級生だった。
『ぼくもいつか、いせかいに行ってみたいです』
そいつは教室の前で、わざと幼い声を作って読み上げた。笑い声が広がった。
「魔法、見せてよ」
「チート能力って何?」
「異世界から帰ってこなくていいぞ」
最初のうちは言い返していた。
学年が上がるにつれ、笑われるたびに嫌な気持ちになった。喉の奥が詰まった。
六年生になるころには、僕も一緒になって異世界小説を馬鹿にした。笑う側にいれば、笑われずに済んだからだ。それ以降、中学でも高校でも、その手の本には触れなかった。表紙が目に入れば、興味がないふりをして通り過ぎた。
そうして忘れたつもりだった。
けれど、紙に並ぶ幼い文字を見ていると、胸の奥で消えずに残っていたものが、かすかに熱を取り戻した。僕はスマートフォンを手に取った。検索欄へ、久しぶりに「異世界小説」と打ち込む。
引っ越し準備の合間。
少しだけ読むつもりだった。けれど、気づけば窓の外は暗くなり、片づけ途中のダンボールに背中を預けたまま、何作目かも分からない物語を追っていた。
面白かった。
悔しいほど、昔と変わらず胸が躍った。
僕は封をしたダンボールを開け、感想文を一番上へ入れた。
捨てることは、もうできなかった。
*
大学では、失った年月を取り返すように異世界小説を読んだ。
講義の合間に読み、食事中に読み、歯を磨きながらも画面を追った。
就職活動の間だけは控えたものの、内定が決まれば元に戻った。
だが、読めば読むほど、子供のころとは違う感覚が強くなった。
物語の世界は鮮やかだった。けれどページを閉じれば、僕は狭い部屋に戻る。魔法は使えない。森の向こうに王都はない。どれほど主人公に感情移入しても、自分の足で土を踏み、風を吸い込むことはできなかった。
大学四年の冬。
夜更けまで読んでいた小説を閉じ、僕はベッドへ仰向けになった。
白い天井が、妙に遠く見えた。
「……これで満足なのか」
VR技術はいずれ進歩するだろう。
限りなく本物に近い異世界へ入れる日も来るかもしれない。
けれど、それは作られた世界だ。
僕が行きたいのは、誰かが用意した舞台ではない。
自分とは無関係に朝が来て、人が生き、知らない歴史が積み重なっている場所だった。
そんな世界が存在する証拠はない。
だからといって存在しない証拠もない。
なら、探せばいい。
馬鹿げている。
口にすれば、また笑われる。
それでも、幼いころの自分をもう一度裏切るよりはましだった。
異世界への入口を見つける。
たったそれだけの目標に、その後の人生を費やすと決めた。




