第94話:書き残さぬために
坂を上がった。
半刻かかった。歩いて半刻と聞いていたので、聞いたとおりである。
上がりきったところで、私は足を止めた。
石が並んでいる。
膝より低い。上が平らで、角が落としてある。字はない。列になっていて、間隔が同じだった。
私は端から見た。
奥の列は苔が厚い。手前の列は新しい。三十一年ぶんが、一つの向きに揃っている。
揃えた者が一人でいるということである。
*
男は奥にいた。
石を削っている。鑿の音が、同じ調子で続いていた。速くもなく、遅くもない。
私が近づいても、変わらなかった。
「ハルトマン下士官」
「はい」
「参謀本部のエルヴィーンである」
「存じております」
男は手を止めて、立った。
背は高くない。手が大きい。爪のあいだに石の粉が入っている。
*
「部隊が一つ立つ」
「はい」
「戦死者の回収と処理にあたる。回収したものは、その場で焼く」
「はい」
「長を置く。お前を推した」
男は何も言わなかった。
驚いた顔でもない。断る顔でもない。ただ、待っている顔だった。
「理由を言え、と言わぬのだな」
「参謀殿がお決めになったことです」
「私が決めたのではない。推しただけである」
「では、どなたがお決めになりますか」
「陛下だ」
*
「お受けできません」
男はそう言った。声の大きさは、先ほどまでと同じだった。
「理由を言え」
「石を置いております」
「見た」
「三十一年、置いてまいりました」
「それが理由か」
「焼けば、置く相手がおりません」
私は男を見た。
男は目を伏せなかった。伏せずに、こちらを見ている。
この者は、断ることに慣れていない。
慣れていないので、飾りをつけない。
三十一年やってきたことを一つ言って、それで終わりにした。
通ると思っているわけでもない。
*
私は懐に手をやって、やめた。
持ってきていない。持ってこなかった。
「ハルトマン下士官」
「はい」
「軍務規程 四-八-三というものがある」
「存じません」
「知らぬはずである。百六十年前に落とされた」
男は動かなかった。
「これから一つ話す。書き残さぬために、口で言う」
「参謀殿」
「聞け」
*
私は言った。
同種の事案には、必ず一名、それを起こす者がある。中心なる者と言う。
中心なる者は、いずれも生者である。死んだ者が起こした例は一件もない。
中心なる者は、いずれも年少である。上は十七、下は六つ。
中心なる者は、その日より長く生きぬ。長くて百日、短くて三日。
*
鑿の音は、もう鳴っていない。
いつ止まったかは、覚えている。二つ目の途中である。生者である、と言ったところだ。
「三十一年前、北の村。十六名」
「はい」
「そのほかに、一名いた」
「はい」
「女。十くらい。息をしていた。食った。寒がった」
男は答えなかった。
「ひと月ののちに死んだ、と聞いたな」
「……はい」
「三日から百日の内である」
風が来た。
私は上着の裾を押さえた。この男は何も押さえなかった。押さえるものを持っていない。
「十一の項がある」
「はい」
「待たずに処すべし。中心なる者を先に、然るのちに動く者を」
男の口が動いた。
声は出ていない。
「以上である」
*
私は背を向けた。
「参謀殿」
私は振り返らなかった。
「参謀殿!」
二度目のほうが大きかった。
三度目はなかった。
*
坂を下りた。
下りながら、いま返事を取らなかったのは正しいと思った。
あの状態で出る返事は、明日には別のものになる。
私が要るのは、明日も同じ返事である。
途中で一度、振り返った。
男は立っていた。
鑿は持ったままである。石には当てていない。
*
あの紙の余白に、書き入れがあった。
見たる者は、二度と同じようには働かぬ。
陛下は、まずそこから破ると仰せになった。
破るのは陛下ではない。
*
川を渡った。水の音が高い。冬にしては高い。
私は、あの男に紙を見せていない。声にしただけである。
声は残らない。
*
残らないものを渡して帰るのを、渡したと言うかどうかであるな。




