第93話(幕間):お返事はまだですか
二月の畑に、人が出ている。
城の窓から見えるのは南の緩い斜面で、そこだけで五十人ほどいる。麦の芽を踏まないように、間を空けて歩いている。
冬に畑へ出るのは、去年までは咎められることだったと聞いた。根が傷むからだそうだ。
いまは誰も咎めない。
私は、その斜面をしばらく見ていた。
見ていると、必ず一つ分からなくなることがある。
あの人たちは、昼になっても戻ってこない。
*
「陛下」
ヴァレリーさんが来た。
「四度目の荷が決まりましてございます。三月一日、ヴァルツを出ると」
「二千八百ですか」
「二千八百にございます」
「多いですね」
「多うございます」
ヴァレリーさんは、そう言ってから少し黙った。
「蔵は、まだ空きませぬ」
私はうなずいた。
三度出して、蔵はまだ空かない。
去年の夏に刈ったぶんが、まだある。そのうえ今年の芽が出ている。
みんなが働いてくれるからだ、と私は思った。
でも、去年もみんな働いていた。
去年は、蔵が空いた。
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「陛下」
「はい」
「書付にお加えになりますか」
一度目のとき、私はアンリさんに聞いた。
書付というのは量と値と日付を書くもので、ほかのことを書く欄はないと言われた。
それでも、いちばん下に少しだけ余りがある。
二度目のとき、私はそこに一行書いた。
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海は、こわいですか。
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ドナートさんは南の人で、船で来る。
三十年、海の上を行ったり来たりしていると言っていた。
私は海を見たことがない。だから、慣れてしまうものなのかを知りたかった。
返事は来なかった。
三度目のとき、もう一行書いた。
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マルコさんは、よくなりましたか。
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中庭で倒れた人だ。
城の者が抱え起こしていて、私はあとから行った。
マルコさんは目を開けて、私を見て、叫んだ。
私は何かしてしまったのだと思う。何をしたのかは分からない。
あのとき謝れなかったので、書いた。
返事は来なかった。
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「陛下」
ヴァレリーさんが言った。
「商いの書付は、返事を書く紙ではございませぬ」
「そうですか」
「向こうも、書く欄がございませぬので」
「では、欄を作ればよいのでは」
ヴァレリーさんは何か言おうとして、やめた。
この人はときどきそうする。
私は書付を引き寄せて、四度目のところに一行足した。
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お返事はまだですか。
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「陛下」
「これなら、返事の欄が要りませんね」
ヴァレリーさんは、印を押した。
押してから、紙の端を揃えた。
アンリさんもよくそうする。困ったときにそうするのだと、私は最近気づいた。
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窓の外は、まだ明るい。
斜面の人たちは、まだ歩いている。
夜になっても歩いている。私は一度、灯りを持たせようとして、要らないと言われた。
見えているのだそうだ。
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ドナートさんは、三月に来る。今度は本人が乗ると書いてあった。
二度目も三度目も番頭さんだったので嬉しい。
嬉しいと思ってから、なぜ今度は乗るのだろうかと思った。
値が動く時期だからだと、ヴァレリーさんは言った。
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値というのは、動くと誰かが得をして、誰かが損をするものらしい。
うちは、いま、どちらなんだろうか。




