第9話:民を生かすこと
城は、丘の上にあった。
石を積み上げた壁が空を切っていて、その上に旗が並んでいる。フェリエ村の礼拝堂を十も二十も重ねたくらいの高さがあった。
城門の前で、アンリさんが立ち止まった。
「陛下。手を」
「手ですか?」
「階段が急でございます」
私は手を差し出した。
その人はそれを取った。私の手を包むように、両手で。乾いていて、軽くて、思ったより力が入っていなかった。
そのとき。
アンリさんの指先が、私の手首の内側に触れた。
ほんの短いあいだだった。押さえるでもなく、なぞるでもなく、ただそこに当てられていた。私は何かの作法かと思って、じっとしていた。都には都の作法がある。この日、私はそればかり考えていた。
指は、動かなかった。
二つ数えるほどのあいだ、その人はそこに指を当てたままでいた。目は伏せられていた。何かを聞いているような、確かめているような顔だった。
やがて指が離れた。
顔を上げなかった。
「アンリさん」
「……失礼をいたしました」
「何か」
「いえ」
アンリさんは私の手を離して、階の方へ向き直った。
「参りましょう」
その横顔を、私は見た。何かを言いかけて、やめた人の顔だった。マルグリット婆さんが道の途中で見せたのと、少し似ていた。
けれど婆さんとは違って、この人は立ち止まらなかった。
*
玉座の間に、千を超える民が集まっていた。
両側に人垣ができて、その真ん中が空いていた。私が入っていくと、全員が頭を垂れた。深く、丁寧に、示し合わせたように同じ角度で。
咳ひとつ聞こえなかった。
高い窓から光が差し込んで、床の敷石に長い四角を落としている。その光の帯を、誰も踏んでいなかった。みな、影の側に寄って立っていた。
部屋の奥に、石の椅子があった。
「あれが」
「玉座にございます」
アンリさんが言った。
「四十年、私が座っておりました」
「立派ですね」
「座り心地は良くありません」
その人はそう言って、少しだけ口の端を動かした。冗談を言われたのだと気づくのに、私は間が要った。
「陛下。この場をお借りして、申し上げます」
アンリさんは私の前に回り、向き直った。
そして膝を折った。
「どうか、この国の王におなりください」
私は言葉が出なかった。
「待ってください」
「はい」
「私は、そんな」
言いかけて、何を言えばいいのかわからなくなった。
私は文字が読めない。数も、指の数を超えると怪しい。畑の作り方も、税の集め方も、法というものが何なのかも知らない。十六年、森で一人で暮らしてきただけだ。
この人は四十年、この椅子に座っていた。
国というものが何でできているのか、私は知らない。けれど四十年かけて覚えることがあるのなら、それは私が七日や十日で覚えられるものではないはずだ。
顔を上げると、両側の人垣が目に入った。
千人が、頭を垂れたまま動かない。この人たちは、私が答えるまでこうしているのだろう。私が黙っていれば、日が暮れてもこうしているのだろう。
「私は、何も知りません」
「存じております」
「では、なぜ」
「民が望んでおります」
アンリさんは顔を上げた。
「私が望んでいるのではございません。この城の者が望んでいるのでもございません。この国の者が、一人残らず望んでおります」
「一人残らず」
「お確かめになれば、おわかりになります」
私は目を閉じた。
声は、ずっと聞こえていた。門をくぐってから、それは絶え間なく続いていた。何万という声が、同じことを言っている。
こちらへ。お待ちしておりました。どうか、こちらへ。
その中に、まったく違うものが混じった。
誰かが、たすけて、と言った。
私は目を開けた。
「アンリさん」
「はい」
「いま、助けてと言った人がいます」
アンリさんの顔から、表情が消えた。
「どこの人でしょう。近くですか」
「……」
「私が行けば、その人は助かりますか」
アンリさんは、しばらく私を見ていた。
それから、深く頭を下げた。
「陛下がこの国の王となられれば、その者も、あなた様の民となります」
それは答えになっていなかった。
けれどそのときの私は、答えになっていると思った。
*
私は玉座まで歩いた。
石の椅子は、思ったより大きかった。座面が広く、背が高く、私が座ると足が床に届かなかった。
冷たかった。
石でできているのだから当然なのだが、座面の冷たさが背中まで上がってきて、私は思わず背筋を伸ばした。
「万歳」
前列の誰かが言った。
すると、千の声が続いた。ひとつも重ならず、ひとつも遅れず、同じ高さの声が唱和した。
私はその音を聞きながら、目の奥が熱くなるのを感じていた。
みんな、幸せそうだった。
誰も飢えていない。誰も泣いていない。誰も、誰かを傷つけていない。私が生まれてからずっと望んでいたものが、目の前にあった。
唱和が止んだあと、私はその人を呼んだ。
「アンリさん」
「はい」
「王というのは、何をするんですか」
アンリさんは少し黙ってから、答えた。
「民を、生かすことにございます」
私は玉座の上で背筋を伸ばした。
それなら、できる。
文字は読めない。法も知らない。税の集め方も、戦のやり方も知らない。けれど、それだけならできる。
「できます」
私は言った。
「それだけは、できます」
アンリさんは、深く頭を下げた。
長いあいだ、頭を上げなかった。




