第8話:鳥のいない街
*アンリ七世のイメージイラストを後書きに追加しました。
門をくぐるとき、私は少し身をかがめた。
そんな必要はなかった。跳ね橋の上を馬が四頭並んで通れるほどの幅があり、頭上の格子は塔の二階分ほど高いところで止まっている。それでも私は身をかがめた。森の家を出入りするときの癖だった。
誰も笑わなかった。
道の両側に並んだ人たちは、私が通り過ぎるまで頭を上げなかった。私は何度か立ち止まって、顔を上げてくださいと言った。言われた者だけが顔を上げ、私が歩き出すとまた下げた。
「エリアス様」
ロランさんが横に来た。
「歩みを止められますと、後ろが詰まります」
「後ろ」
「街道から城まで、人が並んでおります。全員が、あなた様が通られるまで動きません」
私は振り返った。
門の外の街道にも、まだ列が続いていた。丘の裾まで人が並んでいる。あの人たちは、私が門に着くよりずっと前から、あそこに立っていたことになる。
「いつから」
ロランさんは少し黙った。
「昨日の朝から、と申しております」
「誰が」
「あの者たちが」
私はロランさんを見た。
この人は誰にも声をかけていない。列の者も、誰ひとりこちらを向いていない。それなのに、この人はいま、答えを持っていた。
「聞こえるのです」
ロランさんは言った。
「私にも、聞こえます」
*
街を歩いた。
石畳の道は森の獣道の十倍の幅があって、両側に三階建ての家が並んでいた。窓に硝子が入っている家もあった。私は硝子というものを、そのとき初めて近くで見た。
市場を通った。
台の上に品が並んでいた。野菜も、干した肉も、布も、革の靴も。売り手が台の後ろに立っている。買い手が台の前に立っている。
誰も、何も動かさなかった。
値段を言う声も、値切る声もない。手を伸ばす者もいない。売り手と買い手が向かい合って、そのまま止まっていた。私が通ると、両方が同時に頭を下げた。
「市が立っているんですね」
「毎朝、立っております」
アンリさんが答えた。その人は門から先、ずっと私の半歩後ろを歩いていた。
「賑やかでしょうね」
「はい」
それだけ言って、その人は黙った。
私は市場を見渡した。日は高く、天気もよかった。品はどれも新しく見えた。萎びた野菜も、乾いた肉もない。今朝並べたばかりなのだろう。
この人たちは、毎朝これを並べる。
そう思うと、なんだか嬉しくなった。病が流行っても、街が止まらないというのは、いいことのはずだった。
鍛冶屋の前を通った。炉に火が入っていなかった。鎚も金床の上に置かれたままで、職人は戸口に立って頭を下げていた。
その音がしないことに、私は少しだけ引っかかった。
フェリエ村の朝は、トマさんの鉄を打つ音で始まった。あの音がない朝は、村の誰もが「何かあったのか」と思ったものだ。
夏だから、火を使わないのだろうと考えた。
路地の奥に、洗濯物が干してあった。
二階の窓から窓へ縄を渡して、そこにシャツと寝具が並んでいる。日はよく当たっていた。とっくに乾いているだろうと思った。
そのまた奥の路地にも、同じように干してあった。その隣にも。私が見たかぎり、どの路地にも洗濯物が出ていて、どれも取り込まれていなかった。
みんな忙しいのだろう。私が来たので、家のことが後回しになっているのだ。
申し訳ないことをしたと思った。
子供もいた。
広場の隅に、五、六人が固まって立っていた。いちばん小さい子は三つか四つに見えた。手を繋いで、こちらを見て、頭を下げた。
誰も走っていなかった。
フェリエ村では、私が降りていくと必ず子供が走ってきた。ピエールも、リゼットも、ほかの子たちも。走ってきて、袖を引いて、薬草の袋を覗き込んだ。
この街の子は、走らない。
行儀のいい子たちだと思った。都には都の躾があるのだろう。
そこまで考えて、私はもう一つのことに気づいた。
匂いがしない。
六万人が住んでいる街で、パンの匂いも、水路の匂いも、家畜の匂いもしなかった。石と、埃と、それだけだった。森を歩けば、季節ごとに違う匂いがする。村なら、どの家の前を通るかで匂いが変わる。
ここには、何もなかった。
風の通りがいいのだろうと思った。
*
犬も猫も、一匹も見なかった。
六万人が住む街に、鳥さえいなかった。屋根にも、広場にも、川べりにも。私は歩きながら空を見上げていたが、最後まで何も飛ばなかった。
「陛下」
「陛下」
私がそう呼ぶと、この人もそう返してきた。
門をくぐってからずっとそうだった。私たちは互いを同じ名で呼び合っている。少しおかしいと思った。
「あの」
「はい」
「私は、あなたをどうお呼びすればいいんでしょう」
その人は、少し間を置いた。
「アンリ、と」
「呼び捨てに、ですか」
「それが正しゅうございます」
私にはできなかった。
村では誰のことも、さん、をつけて呼んでいた。マルグリット婆さんも、ジャンさんも、アガットさんも。人を名前だけで呼ぶのは、叱るときか、犬を呼ぶときだ。
「アンリさん、では駄目ですか」
その人は私を見た。
それから、目を伏せた。
「……お好きなように」
*
「アンリさん」
「はい」
「この街には、鳥がいないんですね」
アンリさんは一瞬、歩みを緩めた。
「……この時期は、山へ行くのでしょう」
「そうですか」
私は納得した。森でも、季節によって鳥のいる場所は変わる。
「アンリさん」
「はい」
「もうひとつ、聞いていいですか」
「なんなりと」
「みんな、どうして私を待っていたんですか」
その人は答えなかった。
三歩ほど歩いてから、こう言った。
「あなた様の声が、聞こえるからです」
「私は何も言っていません」
「はい」
「それなのに、聞こえるんですか」
「聞こえます」
私はもう少し聞きたかった。何が聞こえるのか。私の何が伝わっているのか。あの声の中で、あついです、と言った人は誰なのか。
「アンリさん、その声は」
「陛下」と、アンリさんは私の問いに私の名を重ねた。
静かな、しかし隙のない遮り方だった。
「城が見えてまいりました」




