第7話:呼ばれている
夜が明けても、村はまだ燻っていた。
礼拝堂は骨組みだけになっていた。ベルトさんの家も、その隣も、屋根が落ちて黒い柱だけが残っている。焼け残った梁から細い煙が上がって、朝の風に流れていた。
みんなが片づけをしていた。
誰に指図されたわけでもない。マノンさんが焼け跡から鍋を拾い、ギが倒れた柵を起こしていた。ピエールが炭を運んでいる。兵たちも混じって、同じことをしていた。昨日この村を焼いた者たちが、今日は瓦礫を運んでいる。
*
礼拝堂の前に、灰があった。
昨日、アガットさんが立っていた場所だった。石畳の上に、黒く焦げた跡が人の形に残っている。その中に、白いものが混じっていた。
私は膝をついた。
灰は、まだ温かかった。
手を入れると、指先が硬いものに触れた。細くて、軽くて、少し力を入れれば崩れそうだった。私はそれを掌に載せた。
起きて。
何も起きなかった。
もう一度、念じた。
リゼットのときと同じようにした。マルグリット婆さんのときも、墓地の六人のときも、額に触れて起きてほしいと思えば、それで起きた。
灰は動かなかった。
私はしばらくそこにいた。風が出て、灰の表面が少し飛んだ。掌のものを落とさないよう、指を閉じた。
粉屋の焼け跡でも、同じことをした。ベルトさんの家だった。戸ごと燃やされて、屋根が落ちている。その下の灰にも手を入れて、同じように念じた。
同じだった。
二人だけが、戻ってこなかった。
*
私は井戸の縁に座っていた。
「婆さん」
「なんだい」
「アガットさんが、起きないんです」
マルグリット婆さんは、井戸の向こうで手を止めた。
「ベルトさんも。他の人はみんな起きたのに、あの二人だけ」
返事はなかった。
「何が違ったんでしょう」
婆さんは、こちらを見た。
口を開けた。
そして、閉じた。
「……わからないねえ」
「そうですか」
私は掌を開いた。白いかけらが載っている。それを、焦げ跡の上にそっと戻した。
わからないなら、仕方がない。あとで思い出すかもしれない。私はそれきりにした。
「陛下」
声がしたので振り返ると、隊長のロランさんが立っていた。
昨日、私の肩を掴んで脇へどけた男だ。胸当てには煤がついていて、外套の裾が焦げている。左の腕が肘から下だけ、妙な角度に曲がっていた。それを気にする様子はなかった。
「その呼び方はやめてください」
「では、何とお呼びすればよろしいでしょうか」
「エリアスです」
「かしこまりました」
ロランさんは頭を下げた。そして、そのまま動かなかった。
「あの」
「はい」
「腕が」
「差し支えありません」
ロランさんは曲がった腕を持ち上げてみせた。指は動いていた。
「エリアス様。ご報告がございます」
「報告」
「東部管区代官所へ、七日ごとに定期報告を上げる規定になっております。前回が十九日、次が二十六日。すでに二日遅れております」
私はその言葉の意味を考えた。
「報告というのは、何を書くんですか」
「事案の処理結果、隊員の損耗、消費した聖別油の数量にございます」
「それを、書くんですか」
「書かねばなりません。規定でございます」
ロランさんの顔に、迷いはなかった。十九年この仕事をしてきたと、この人は昨日言った。その十九年が、まだこの人の中で動いている。
「エリアス様。もう一点」
「はい」
「規定第七条により、生者は現場より退去させたうえで処理にあたるものといたします」
「え」
「この村に、生者はおりません。全員の退去が完了いたしました」
私は何と答えていいかわからなかった。
「では、規定は満たされたということですね」
「はい」
ロランさんは、深く頭を下げた。
*
その日の昼から、声が聞こえるようになった。
最初は耳鳴りのようなものだと思った。井戸の水を汲んでいるとき、遠くで大勢が話しているような音がした。顔を上げると、村には誰の話し声もない。みんな黙って働いている。
耳を押さえてみた。
消えなかった。
むしろ、はっきりした。
声は外から来ているのではなかった。頭の中に、直接、置かれていた。
数えきれなかった。百や二百ではない。同時に何千という声が、それぞれ別のことを言っている。ほとんどは聞き取れない。ただ、どの声にも共通しているものがあった。
私を呼んでいる。
私は井戸端に座り込んだ。
「どうしたんだい」
マルグリット婆さんが近づいてきた。
「声が」
「声」
「たくさんの人が、私を呼んでいます」
婆さんの動きが止まった。
「何て言ってるんだい」
「はっきりとは。ただ、こちらへ、と」
私は目を閉じた。声はいくらか揃ってきていた。ばらばらだったものが、私が耳を澄ませるにつれて形を持ち始める。
「こちらへ、お越しください。お待ちしております。どうか、こちらへ」
そういう声だった。
そして時折、まったく違うものが混じった。
声の川の中に、たまに、流れに乗らないものがある。ほんの一言だけ、ほかの何千とまるで違うことを言って、すぐ元の流れに戻る。
誰かが、あついです、と言った。
誰かが、いたい、と言った。
誰かが、おかあさんはどこ、と言った。
子供の声だった。私は目を開けて、あたりを見回した。ピエールは炭を運んでいる。リゼットはジャンさんの脇に立っている。この村の子供ではなかった。
「婆さん」
「なんだい」
「子供が、母親を探しています」
婆さんは私を見ていた。
「遠くにいます。ここから、ずっと遠くに」
「そうかい」
「行かないと」
私は立ち上がった。
「みんな、助けを呼んでいます。あの人たちは、私を待っているんです」
婆さんは何も言わなかった。
その代わり、腰を上げた。
「ついていくよ」
*
私たちは西へ向かった。
声のいちばん濃い方角がそちらだった。ロランさんが、その先に王都があると教えてくれた。徒歩で十日、馬なら四日の距離だという。
村を出るとき、私は振り返った。
誰も残っていなかった。全員がついてきていた。マルグリット婆さん、リゼット、パン屋のジャンさん、その妻のクロエさん、ピエールさん、ギさん、それに赤ん坊を抱いたマノンさん。九人の兵と、トマさん。
十九人の列が、麦畑のあいだの道を進んだ。
赤ん坊は、マノンさんが抱くことになった。
あの子の母親は村を出たのだと、私はずっと思っていた。そうではなかった。母親は墓地にいた。私が掘り返した六人の中に、この子の母親がいたのだ。
気づかなかったことを詫びると、マノンさんは首を振って、赤ん坊の背を軽く叩いた。それきり何も言わなかった。
誰も何も言わなかった。休みたいと言う者も、腹が減ったと言う者もいなかった。日が暮れても、誰も止まろうとしなかった。私が疲れて足を止めると、全員が止まった。私が歩き出すと、全員が歩き出した。
クロエさんだけが、途中で座り込んだ。
私は水を汲んで、干した果実とパンを分けた。この人はよく食べた。三日ぶりだと言った。歩けなくなるたびに休ませたので、旅の日数のうち二日ぶんは、この人のために使ったことになる。
みんな、文句ひとつ言わずに待っていた。
やさしい人たちだと思った。
最初の村は、日暮れ前に着いた。
名前を、私は知らない。街道沿いの、フェリエ村より少し大きな集落だった。
道の両側に、人が並んでいた。
村中の人間が出てきていた。老人も、子供も、赤ん坊を抱いた女も。街道の左右に、二列になって立っている。
私が近づくと、全員が同じ角度で頭を下げた。
「陛下」
誰かが言った。
そして、村中の声が続いた。ひとつも重ならず、ひとつも遅れなかった。
「お待ちしておりました」
私は足を止めた。
この村に、私は来たことがない。ここに知り合いは一人もいない。
「どうして、私を知っているんですか」
顔を上げた者はいなかった。
「聞こえるからです」
いちばん前の男が答えた。四十くらいの、農夫らしい格好の男だった。
「昨日から、頭の中に聞こえるのです。あなた様の声が」
「私は何も言っていません」
「はい」
男は言った。
「それでも、聞こえます」
私はその村を通り抜けた。
誰も、私が通り過ぎるまで頭を上げなかった。村の端まで来て振り返ると、全員がまだ同じ姿勢で立っていた。
その日の夜、私は星の下で考えた。
あの人たちは、病だったのだろうか。もしそうなら、いつ死んだのだろう。誰が助けたのだろう。
私は誰も助けていない。あの村に足を踏み入れたのは、今日が初めてだ。
わからなかった。
わからなかったが、みんな元気そうだったので、それでいいと思った。
*
三日目に、軍と行き会った。
街道を塞ぐように、二百ほどの兵が並んでいた。旗が四本立っている。ロランさんが、王国正規軍の東部方面隊だと言った。
「戦うんですか」
私が聞くと、ロランさんは首を横に振った。
「その必要はございません」
軍が動いた。
前列から順に、槍を地面に置いた。それから、膝をついた。二百人が、波が引くように、順に膝をついていった。
いちばん後ろに、馬に乗った男がいた。
その男だけが、降りなかった。
立派な鎧を着ていた。兜は脱いでいて、四十半ばくらいの、傷のある顔が見えた。その人は馬上から、私をじっと見ていた。
「お前か」
「はい」
「ギヨームという。この方面隊を預かっている」
私は頭を下げた。
「エリアスです」
「知っている」
ギヨームさんは馬を降りた。地面に立つと、私よりずっと背が高かった。
「わしは三日前に死んだ」
「え」
「胸をやられてな。境の戦で、アイゼンヴァルトの騎兵に。担架で運ばれる途中で息が止まった。それははっきり覚えておる」
ギヨームは自分の胸当てを叩いた。乾いた音がした。
「それが、起き上がった」
「そうですか」
「そうですか、ではあるまい」
その言い方に、怒りはなかった。
むしろ、笑っているようだった。
「わしは二十年、負け続けた。東の連中に一度も勝てん。兵は死ぬ。補充は来ん。来ても農民だ。わしは葬いの言葉ばかり覚えた」
「それは、辛かったですね」
「辛かった」
ギヨームさんは言った。
「だが、もう死なん」
その顔を、私は見た。
この人は喜んでいる、と思った。何が嬉しいのかはわからなかったが、久しぶりに嬉しそうな顔を見た気がした。私はそれが嬉しかった。
「よかったです」
「小僧」
「はい」
「お前、自分が何を作ったかわかっておるか」
同じことを、何度も聞かれた。
「わかりません」
「そうか」
ギヨームさんは笑った。それから、片膝をついた。
「では、わしが使ってやろう」
「使う、というのは」
「案ずるな」
ギヨームさんは顔を上げた。
「お前は誰も殺さんでいい。手も汚さんでいい。ただ一つ、聞かせてくれ」
「はい」
「お前は、民を守りたいのだろう」
それは、考えるまでもないことだった。
「はい」
「ならば十分だ」
ギヨームさんは立ち上がった。満足したようだった。私は自分が何に頷いたのか、そのときは考えなかった。
*
六日目の夕方、丘を越えた。
王都が見えた。
私は足を止めた。
それまで、私が見た中でいちばん大きな集落はフェリエ村だった。三十戸ある。私はそれを大きいと思っていた。
眼下に広がっていたものを、私は数えられなかった。
石の壁が地平の端から端まで伸びて、その内側に、屋根が重なり合っていた。塔が何本も立っている。川が街を貫いて、そこに橋が架かっている。
煙は、一本も上がっていなかった。
「何人、住んでいるんですか」
「六万ほどかと」
ロランさんが答えた。
六万という数を、私は思い描けなかった。
その六万人が暮らしている街から、竈の煙が一本も出ていない。夕暮れどきだった。フェリエ村ですら、この時刻には三十の煙が上がる。
私はそのことを、少し不思議に思った。
夏だから、火を使わないのだろうと考えた。
声が、大きくなっていた。
この六日、声はずっと聞こえていた。近づくにつれて濃くなり、丘を越えた今、それは音の壁のようになっていた。何万という声が、同時に、私を呼んでいる。
私は膝に手をついて、しばらく息を整えた。
「エリアス様」
「大丈夫です」
「門が」
ロランさんが言った。
私は顔を上げた。
王都の正門が、開いていた。
跳ね橋が下りて、鉄の格子が上がっている。兵は一人も立っていない。門の内側から外へ向かって、道の両側に人が並んでいた。壁の上にも人がいた。屋根の上にも。窓という窓から、人が身を乗り出していた。
六万人が、私を見ていた。
そして、門の真ん中に、一人だけ立っている者がいた。
白髪の老人だった。
高価そうな上着を着ているが、それが身体に合っていない。ずいぶん痩せているのだろうと思った。距離があるのに、その人が私を見ているのがわかった。
私が丘を下りて、門の前まで行くと、老人は一歩前に出た。
「ようこそお越しくださいました」
声は落ち着いていた。
「ヴィタリス王国国王、アンリ七世と申します」
そして、膝を折った。
六万人が、それに続いた。




