第89話:売り手を替える
一銭もかかりませぬ、とライマー老は言い切った。
言い終えて、手を膝に戻したまま動かなかった。
卓が、少しほどけた。
東部方面のトビアス閣下が背を戻した。
南部方面のフンベルト閣下が初めて口を開いて、糧秣の話ならば南も同じでございます、と言った。
ホルスト軍監がうなずいた。この方は金の話に弱い。
わたしは書き取りながら、これは通る、と思った。
三日から百日で死ぬ者を、金を使って殺しに行く理由はない。
誰が聞いてもそう聞こえる。八人が聞いたのは、その一行だけだからである。
*
陛下はすぐにはお答えにならなかった。
卓のこちら側を見ておられた。参謀でも、わたしでもなかった。
「軍医」
「はい」
「言え」
レンツ軍医は、綴りを胸に抱えたまま立った。抱え方が下手である。二十年、この方はこの抱え方で歩いておられる。
*
「記録どおりなら」
軍医は言った。
「この少年は、既に死んでいるはずでございます」
*
誰も、何も言わなかった。
スヴェン書記の筆が止まった。止まってから、慌てて動いた。
「何日目でございましたかな」
ライマー老が聞いた。
「二百十日でございます」
「ほう」
老人は、それだけ言った。
「二百十日で、二十万」
エルヴィーン参謀が言った。
「私は、使った量だけ生きる長さが減ると考えました。三日で死んだ者は一度に使い、百日生きた者は薄く長く使った。二十万を一度に使えば、その日のうちに死にます」
「死んでおらぬ」
「はい」
「では、どうなる」
参謀は、そこで止まった。
「二十万を使って、減っておりませぬ」
「何を使っている」
「分かりかねます」
参謀は座らなかった。座らずに、紙の端を指で押さえていた。
わたしはその手を見ていた。三年見ているが、この方が自分の書いたものを押さえるのを見たことがない。
「ならば、記録は当てにならぬ」
陛下が言われた。
「ライマー」
「はい」
「待てば死ぬ、と申したな」
「はい、申しました」
「その待つ日数は、どこから出た」
ライマー老は、しばらく答えなかった。
答えないのではなく、答えを探していない顔だった。もう分かっている者の顔である。
「その記録から出ております」
「その記録が、二百十日を書いておらぬ」
「そのようで」
「では、いつまで待つ」
「分かりませぬのぉ」
ライマー老はそう言って、うなずいた。
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「待機は却下する」
陛下が言われた。
「記録に日数が書いてある。その日数を、あの少年は倍で越えている。越えた者に、いつ死ぬかを書いた紙はない」
「では、いかほど出せばよろしいか」
わたしは筆を止めた。
止めたのは、ライマー老が言い終わるのが早すぎたからである。
却下された者が次に言う言葉ではない。
反対していた者が、反対を取り下げる間もなく、額の話に移っている。
*
「冬に出すのだ。倍かかると申したな」
「倍でございます。ただ」
ライマー老は指を一本立てた。
「どうせ使うなら、それに見合った利益をとるようにいたしましょうぞ」
*
卓が静かになった。
「言え」
「外務長官」
老人は、卓の向かいへ顔を向けた。
「帝国が買い始めた、と仰いましたな」
「申しました!」
「量は、連邦の三分の一」
「左様で」
「では、その帝国は、いま西から買うほかに手がございますかな」
イザーク外務長官は、少しのあいだ考えた。
考えている顔を、わざと見せる男である。わたしはそう思っている。
「ございませぬな。連邦は西から仕入れて売っております。帝国が連邦から買っても、もとは西でございます」
「なるほど」
ライマー老は、卓の中央の紙を見た。
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「陛下。売り手を潰しますと、買い手が困ります。困った買い手は、困らせた者を恨みますでな」
「では、どうする」
「売り手を替えるのでございます」
誰も口を開かなかった。
わたしは書き取った。書き取りながら、この一行が何を意味するのかを考えていた。
考えて、分かった。分かってから、書き取った手が汚く見えた。
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「あの畑は、二十万が耕しているようで」
ライマー老は続けた。
「そして二十万は、食っておらぬのですな? 作った分が、そのまま外へ出ます。そんな畑は、大陸のどこにもございませぬ」
「それを取れと言うか」
「取るとは申しておりませぬ。売る者が替わるだけでございます」
「誰が耕す」
「そこは、兵の仕事ではございませぬので」
ライマー老はそう言って、また手を膝に戻した。
財務長官も頭が上がらぬ、と聞いたことがある。
流石は、財務長官にならなかった方である。
なれなかった、ではなく。
*
卓の向かいで、ナターリエ閣下が小さく何かを呟いた。
「何だ」
「いいえ。慌てると実入りが減りますわよ、と申し上げようと思っただけ」
「誰にだ」
「どなたにでも」
この方は、陛下のほうを見ていなかった。参謀のほうも見ていなかった。
*
「メルダース」
「はい」
「書いたか」
「書きました」
「読み返せ。三行目からだ」
わたしは読み返した。
三行目から下は、日数と、額と、麦の量だけだった。
人の話は、一つも書いていなかった。
*
壁ぎわで、ブリッツが腕を解いた。
彼は、この議で一言も言っていない。
ホルスト軍監の咎める声は、今日はまだ無い。




