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白王と黒王  作者: ブルースライム
第2章:アイゼンヴァルト王国

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第83話:処置しておりませんので

 王都軍医寮 軍医 レンツ


 一、三十一年前の件につき、当時の在職者より聴取のこと。


 一、勅命による。当人にその旨を告げよ。


        参謀本部 エルヴィーン


     *


 三行目がない。


 いつもなら、所見は当職宛とせよ、と続く。今度はない。どこへ出すのかが書いていないということは、書かせる先が参謀本部ではないということだ。


 私は命令書を畳んで、懐に入れた。


     *


 北の門を出て、川を渡って、坂を上がった。


 三度目である。二度目は先月で、そのときは掘っていた。今日は掘っていなかった。石を削っている。


 膝の上に石を置いて、鑿を当てている。上を平らにして、角を落とす。


 手を止めずに、こちらを見た。


「軍医殿」


「勅命で来た」


 ハルトマンは鑿を置いた。置いてから、外套の上に石を移して、立ち上がった。


 膝の土を払わなかった。


「承ります」


     *


「三十一年前の件だ」


「はい」


「書いていないことは話せぬ、と先月言ったな」


「申しました」


「勅命でもか」


 ハルトマンは、少し黙った。


「陛下が書けと仰せになれば、書きます」


「書けとは仰せになっていない」


「では、話せません」


 そういう男である。私は先月それを見ている。見ていて、来た。


     *


「では、書いてあることを聞く」


「はい」


「十六名だな」


「十六名です」


「その十六名のほかに、誰かいたか」


     *


 風が吹いた。


 削りかけの石が外套の上で少し動いて、ハルトマンはそれを手で押さえた。押さえてから、答えた。


「おりました」


「記録にはないな」


「ございません」


「では、それは書いていないことか」


 ハルトマンは、そこで初めて手を離した。


「いいえ」


「なぜだ」


     *


「処置しておりませんので」


     *


 私は、その言い方を二度、頭の中で繰り返した。


 処置した者のことは、処置の記録に書く。処置していない者のことは、書かない。書かないものは、書いていないことではない。


 この男は三十一年、その線で立っている。


「どうした」


「歩いて帰しました」


「帰した」


「はい」


     *


 帰した、と言った。


 帰った、ではない。逃がした、でもない。この男は、自分がやったことだけを言う。


     *


「処置せよと言われたか」


「言われました」


「それで」


「しませんでした」


     *


 私は、次の問いを持っていなかった。


 持っていなかったのではない。持たないことにした。


 三十一年前に何人いたかを聞きに来た。誰が何を命じたかは、私の役目ではない。役目でないことを聞けば、それは書かねばならなくなる。


     *


 私は坂の下を見た。川が光っている。あの日も同じ川があって、同じ坂があったのだろう。


「歳は」


     *


 ハルトマンは、そこで手を止めた。


 風は吹いていなかった。石も動いていなかった。


「十くらいかと」


「男か」


「女です」


「生きていたか」


「息をしておりました」


「それは生きているということか」


「軍医殿にお尋ねしたいところです」


     *


 私は答えなかった。


 二十年、死亡を確認してきた。息をしているかどうかで判じてきた。


 先月からそれが揺れている。


「食っていたか」


「握り飯を渡しました。食いました」


「寒がっていたか」


「震えておりました。外套を掛けました」


「外套は返ってきたか」


「いえ。それでよいと思っております」


 私は書き取らなかった。書けば、いつか誰かが読む。読ませるために来たのだから、書くべきである。


 書くべきであることは分かっている。


     *


「その者は、いまどうしている」


「ひと月ののちに死んだと聞きました」


     *


 私は顔を上げた。


「死んだ? 誰から聞いた」


「同じ村の者からです。半月ほどして、一度様子を見に参りました。次に行ったときには、おりませんでした」


「病か」


「そう聞いております」


 風がまた吹いた。ハルトマンは石を押さえなかった。今度は動かなかったからである。


「見に行ったのだな」


「はい」


「軍規にあるか」


「ございません」


 この男は、軍規にないことを三十一年やっている。石を削るのも、そうだ。


     *


「ハルトマン」


「はい」


「あの記録は、読まれた」


 ハルトマンは動かなかった。


「誰が読まれましたか」


「陛下だ」


     *


 しばらく、何も言わなかった。


 それから、膝を折って、外套の上の石を取った。取って、また鑿を当てた。


「そうですか」


     *


 削る音が始まった。速くもなく、遅くもない。先月と同じ調子だった。


 私は坂を下りた。途中で振り返ると、まだ削っていた。


     *


 城へ戻って、私は紙を出した。


     *


 三十一年前の件につき、当時の在職者より聴取す。


 処置十六名のほか、現場に一名あり。女。当時十くらい。


 当該下士官、処置を命ぜられたるも、これを行わず。徒歩にて帰す。


 息あり。食を摂り、寒さを訴う。


 ひと月ののち、病により死亡と聞き及ぶ。


     *


 五行になった。


 書いてから、私はもう一行足した。


     *


 右、当該下士官は軍規によらず、半月ののちに当人を訪ねている。


     *


 この一行は、要らない。


 要らないが、書かなければ、次の者が同じところで止まる。


     *


 書かなかった一行が、一つある。


 誰が命じたのか、を私は聞かなかった。


 聞かなかったのだから、書きようがない。

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