第77話:戦場じゃなかったですね
朝、迎えが来た。昨日の男とは違う者だったが、同じことを言った。
「ご案内いたします」
*
通されたのは、玉座の間ではなかった。
紙の匂いのする部屋だった。卓が三つ。壁際に棚があって、束ねた紙が天井まで積んである。
窓が広い。この城で、初めて明るい部屋を見た。
卓の向こうに、少年が座っていた。
紙を一枚ずつ取って、印を押している。押しては横へ置き、また取る。手が止まらない。
脇に立っている老人が、押した紙を揃えていた。
*
少年が顔を上げた。
「ミカさん」
立ち上がった。印を持ったままだった。
「ミカさんですよね」
「……ああ」
卓を回って、こちらへ来た。途中で紙の束にぶつかって崩し、老人が拾い、少年は謝ってから、また歩いてきた。
おれの前に立って、手を出した。おれは握った。
*
あたたかい。
*
おれは、その手をしばらく離さなかった。離せなかった、と言ったほうが近い。
この七日で、おれが握った手は二つである。片方は村の子供の手で、冷たくもなく、温かくもなかった。もう片方が、これである。
「どうしました」
「いや」
手を離してから、眼の前の少年をじっと見た。
去年と同じだった。背が少し伸びている。それだけである。手の甲の皮は薄くなっていない。目のくぼみも落ちていない。唇も引いていない。爪の根に筋もない。
この国に入って七日、乾いていない者を、おれは二人見た。
昨日の廊下の女と、少年だけだ。
*
「座ってください」
少年は椅子を引いた。自分で引いた。老人が動く前に引いた。
「何か持ってこさせます。朝ですから、食べていませんよね」
「食った」
「じゃあ、もう一度食べましょう」
言い返す間がなかった。
*
パンと、豆と、干した果実が来た。去年と同じものである。
少年は自分のぶんも取った。割って、口に入れて、噛んだ。
おれはそれを見ていた。
去年も少年は食っていた。
街道の脇で、雨の日の前の昼に、同じように食っていた。
おれはそれを見て、なぜか安心した。
今日も食っている。噛む回数が一定していない。途中で水を飲む。硬いところで手間取って、指を使う。
生きている。
*
おれは、深く息を吐いた。
「戦場じゃなかったですね」
少年が言った。おれは口の中のものを飲み込んだ。
「覚えてたのか」
「覚えています。次は、たぶん戦場だ、って。だから、そうならないといいですね、と言いました」
「言ったな」
「そうなりませんでした」
少年は笑った。うまく笑えていた。
去年、口の端だけを動かしていたのはおれのほうである。
*
「東は、どうですか」
来た、とおれは思った。
去年も同じことを聞かれた。家のこと、食い物のこと、歌のこと。
おれは答えた。
答えてはいけないことではなかったが、答えるべきでもなかった。
斥候は、聞かれたことに答えない。
「変わらん」
「そうですか」
「寒い。飯がまずい。上官が怒鳴る」
「怒鳴るんですか」
「毎日な」
少年は、それを面白そうに聞いていた。
おれは自分が喋っているのを、途中から他人ごとのように聞いていた。止める理由はいくらでもあったが、敢えて止めなかった。
*
「ミカさん」
「ああ」
「私、あなたに言われたことを、ずっと考えていました」
手が止まった。
「何を」
「休ませてやってくれ、と言われました」
言った。去年、この城のどこかで、卓に手をついて、声を震わせて、おれはそう言った。
「あれから、考えています。いろいろやってみました。うまくいきません」
*
「まだ、できていません」
*
おれは何も言えなかった。
脇の老人が、紙を揃える手を止めていた。
止めていることに、おれは気づいた。少年は気づいていない。
*
「どうすればいいと思いますか」
*
少年は、素直に聞いていた。
困った顔でもなく、試す顔でもなかった。
七ヶ月考えて答えが出ないので、去年それを言った男に聞いている。それだけの顔だった。
おれは口を開いた。
開いてから、自分が何を言おうとしているのかに気づいた。




