第58話:北の道を
夜中に目が覚めた。
声が変わっていた。
*
声はいつも聞こえている。眠っていても聞こえる。慣れてしまったので、雨の音のようなものになっている。
ほとんどは同じ言葉だ。こちらへ。お待ちしております。陛下。
その中に、ときどき別のものが混じる。
あついです。いたい。おかあさんはどこ。
混じるのはごく僅かだ。何日かに一つ。私はそれを聞くたびに、遠くで誰かが助けを求めているのだと思う。声のする方角は分かるのに、誰なのかは分からない。
今夜は、多かった。
*
数えようとして、やめた。
いたい、と言っている。
同じ言葉が、いくつも重なっていた。
私は起きて、上着を羽織って、廊下へ出た。
*
執務室に灯りはなかった。
この城は夜も灯りをつけない。それでもアンリさんは、たいていそこにいる。
扉を開けると、卓の前に立っていた。
「陛下」
「アンリさん」
「お休みではございませんか」
「声がします」
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「東で、何かありましたか」
アンリさんは、しばらく黙っていた。
「戦がございました」
「勝ちましたか」
「はい」
「怪我をした人がいますね」
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アンリさんは答えなかった。
私は待った。
秋にも同じことを聞いた。あのときは、問題ございません、と言われた。
今日は言わなかった。
言えないのだろうと思った。私が先に聞いてしまったからだ。痛いと言っている人がいるのに、問題ないとは言えない。
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「境を越えたんですね」
「……はい」
「私は聞いていません」
「申し訳ございません」
アンリさんは頭を下げた。
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私は少し考えて、それから気がついた。
「私が、連れてきましょうと言ったからですね」
「さようでございます」
「秋に、言いました」
「はい」
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言った。塔の上で、地図を見ながら言った。
あの千二百人を連れてきましょう、と。
向こうが手放さなかったので、そのままになっていた。手放さないなら、行くしかない。行くなら、境を越えるしかない。順に考えれば、そうなる。
私は順に考えなかっただけだ。
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「東の人たちは」
アンリさんは書類の角を揃えた。
「どうなりましたか」
揃え終わっても、答えは来なかった。
この人はよくこうなる。何か言いかけて、やめる。夜中に起こしてしまったからだと思った。
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「行きます」
私は言った。
「痛いと言っている人がいます。行って、手当てをします」
「陛下」
「はい」
「東は遠うございます」
「馬で四日ですよね。前にも行きました」
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アンリさんは、それきり何も言わなかった。
止められると思っていたので、私は少し拍子抜けした。
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朝になって、ヴァレリーさんが来た。
「お供をつけます」
「そんなに要りません」
「要ります」
ヴァレリーさんはそう言って、数を言った。私はその数を覚えられなかった。
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昼前に、リゼットが廊下に立っていた。
柱の前だ。この子はいつもそこにいる。
「どこ行くの」
「東」
「いつ帰るの」
「分からない」
私は膝をついた。
「帰ってきたら、話をするよ」
「うん」
この子は、行かないでとは言わなかった。一度も言ったことがない。
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出立の前に、アンリさんが地図を持ってきた。
卓の上に広げて、指で線をなぞった。
「北の道をお通りください」
「北ですか?」
「南は雪が深うございます。この時期は、荷馬が進みませぬ」
「そうですか」
「北なら街道が整うております。四日で着きます」
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私はうなずいた。
この人は道に詳しい。四十年、この国の書類を読んできたのだと聞いた。どの道が雨で何日潰れるかまで頭に入っているらしい。
北の道を通れと言うなら、そのほうがいいのだろう。
私はそれ以上、考えなかった。
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支度をした。
持っていくものは少ない。上着と、外套と、薬草の袋。
袋は村から持ってきたものだ。中身はだいぶ減っている。セシルさんに油を分けてもらって、それも入れた。
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馬に乗るとき、私は思った。
王の仕事で東へ行くのではない。
痛いと言っている人がいるから行く。
村にいたころと同じことだ。七日に一度、村へ降りて、腹が痛いと言う人がいれば煎じてやった。屋根から落ちた人がいれば、添え木を当てた。
同じことだ。
数が増えただけだと思った。
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北の道は、聞いたとおりだった。
石が敷いてある。轍の跡が浅い。雪は掃かれていて、路肩に寄せてあった。誰かが毎朝やっているのだと思った。
馬が速かった。
南の道を知らないので比べようがないが、アンリさんが言うのだから、そうなのだろう。
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二日目から、人が出てくるようになった。
道の脇に並んでいる。私が通ると頭を下げて、通り過ぎると元に戻る。畑の中から出てきた者もいた。手に鍬を持ったままだった。
私は馬を止めなかった。
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これは、初めてのことだった。
いつもなら止まる。村でもそうしていたし、王都でもそうしている。声をかけて、具合を聞いて、痛いところがあれば見る。半日そうしていて、書類が溜まったこともある。
今日は止まらなかった。
東で痛いと言っている人のほうが、痛いからだ。
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止まらないと決めてから、私は道の先だけを見るようにした。
脇を見ると、目が合う。目が合うと、止まりたくなる。
だから見なかった。
三日目には、それにも慣れた。慣れたことが、少し嫌だった。
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四日目の昼過ぎに、境が見えた。
杭が並んでいる。低い杭だ。それが野の中を北へ南へと続いていて、その向こうも、こちらと同じ枯れ草だった。
どこからが向こうなのか、杭がなければ分からない。
私は馬を降りた。




