第53話:初めてではございません
「もう幾日か、置いていただけませんか」
ベルナールさんがそう言ったのは、次の日の朝だった。
「いいですよ」
私は答えた。
答えてから、早すぎたかと思った。けれど本当に嬉しかったので、仕方がない。
城に外の人が来ることは、めったにない。秋にドナートさんが来て、二日で帰った。それきりだ。
「何日でも構いません」
「では、三日ほど」
ベルナールさんは、それだけ言った。
*
その日の昼、私の部屋へ来てもらった。
廊下でアンリさんとすれ違った。書類を抱えていた。ベルナールさんに軽く頭を下げて、そのまま行った。
ベルナールさんも下げた。
二人とも、何も言わなかった。
私は少し不思議に思った。城の人は、客に会えばたいてい何か言う。今日はどちらも黙っていた。
*
「陛下のことを、少しお伺いしてもよろしゅうございますか」
「私のですか」
「はい」
私は驚いた。この人は国を見に来たのだと思っていた。
「何もありませんよ。私のことなんて」
「それでも」
ベルナールさんは言った。
「お伺いしたいのです」
*
私は椅子に座り直した。
考えてみると、この城に来てから、私のことを聞かれたのは初めてだった。
みんな、私を気遣ってくれる。休んでくださいと言う。冷えますから羽織ってくださいと言う。
けれど「あなたのことを教えてください」と聞かれたことはなかったと思う。
外の人だからなんだろうか。
*
ベルナールさんは、私の手を見た。
両の手のひらを上に向けさせて、指の先まで見た。それから爪を見て、手の甲を返して見た。触れはしなかった。ただ見ていた。
見終わると、今度は顔を見た。目のあたりを見て、口のあたりを見て、首を見た。
村でも同じことをする人がいた。村の入口の石に座っていたマルグリット婆さんだ。腹を下した子供が出ると、婆さんはまず手を見た。爪の色で分かるのだと言っていた。
「お医者さんみたいですね」
「昔、少しばかり」
ベルナールさんは言った。
「司祭は、病んだ者のところへ参りますので」
*
私の手を検めた人は、ベルナールさんで二人目だった。
夏に、宮廷魔術師のセシルさんが私の手首を取って、脈を三度数えたことがある。
あのとき、セシルさんは数え終わってから、何も言わなかった。私も聞かなかった。悪いところがあれば言うだろうと思ったからだ。
ベルナールさんも、そうだった。
*
「お疲れではございませんか」
「疲れません」
私は答えた。
「前は疲れたんです。馬に四日乗ったら、次の日は座れませんでした。いまは平気です。王の仕事に慣れたんだと思います」
話しているうちに、他にもあったのを思い出した。
「そういえば、眠くならなくなりました。夜に眠れない日があっても、次の日にちゃんと動けるんです。やることが多いので、都合がいいです」
ベルナールさんは、膝の上で指を組んだ。
「それから、寒くありません」
私は窓のほうを指した。
「東の砦にいたとき、雪が積もっていたんですが、平気でした。去年までは、冬になると手がかじかんでいたんです。丈夫になったんだと思います」
*
ベルナールさんは、目を閉じていた。
私は待った。この人はよく目を閉じる。短いときと長いときがある。今日のは長かった。
窓の外で鳥が鳴かないのは、いつものことだ。それでも、その静かさが少しだけ長く感じられた。
やがて、目を開けた。
「初めてではございません」
*
「何がですか」
「昔、似た場所へ参ったことがございます」
「似た場所?」
「小さな村にございました」
「どんなところですか」
「もう、ございません」
私は言葉に詰まった。
なくなったのだ、と分かった。村がなくなるということが、どういうことかは知っている。フェリエ村も、いまは誰も住んでいない。窯も、井戸も、婆さんの座っていた石も、そのまま置いてある。
あの村には、三十戸あった。
いまは、誰も戻っていない。
「病ですか」
「はい」
「何人でしたか」
「……」
ベルナールさんは答えなかった。
言いたくないのだろうと思って、私はそれきりにした。
*
「陛下」
「はい」
「一つだけ、申し上げてよろしゅうございますか」
「どうぞ」
ベルナールさんは、少し間を置いた。
「陛下は、還らざるものを負うておいでです」
私はその言葉を、頭の中で二度なぞった。
「すみません。よく分かりません」
「地に還るべきものが、還っておりません」
「……」
私は黙った。
難しい言葉は苦手だ。字が読めないので、聞いて分からないものは、それきりになる。
ベルナールさんは、私の顔を見ていた。
それから、言い直した。
「病にございます」
*
「病」
その言葉なら分かる。
「みんなの、ですね」
私は身を乗り出した。
「痩せてきているんです。ずっと気になっていました。手の甲の皮が薄くなって、目のあたりが落ちくぼんで。食事を増やしても、休んでもらっても、よくならないんです」
ベルナールさんは、私を見ていた。
「薬草も試しました。乾きに効くものを、セシルさんと一緒に。少しは遅くなったんですが、それだけで」
私は膝の上で手を組んだ。
「私のやり方が悪いんだと思っていました。ずっとそう思っていました」
*
「病なら」
私は言った。
「病なら、治るということですよね」
言ってから、自分の声が大きかったことに気づいた。
病は治る。全部ではないけれど、治るものもある。村では熱を出した子供が三日で起き上がった。腹を下した年寄りが、煎じ薬で戻ったこともある。
名前が分かれば、手の打ちようがある。名前が分からないから、何もできなかったのだ。
「治せるんですか」
*
ベルナールさんは、しばらく私を見ていた。
「私には決められません」
「決める」
「見たままを書いて、上へ送ります。決めるのは、私ではございません」
「どのくらいかかりますか」
「分かりかねます」
「待ちます」
私は言った。
みんながよくなるのを、半年待った。あと少し待つくらい、なんでもない。
「お願いします」
私は頭を下げた。
*
顔を上げると、ベルナールさんが膝をついていた。
石の床に、両方の膝をついている。
「そういうのは、いいですって」
私は慌てて手を伸ばした。門で会った日にも同じことを言った。あのときは、途中でやめてくれた。
今日は、立たなかった。
私は手を引っ込めて、待つことにした。祈っているのだろうと思ったからだ。村に坊さんが来たときも、祈っているあいだは誰も声をかけなかった。
ベルナールさんは、床を見ていた。
目は、閉じていなかった。




