第52話:奇跡でございます
「教会から使者が参ります」
一月の半ばに、ヴァレリーさんがそう言った。
「教会?」
「はい」
「どこの国ですか」
「国ではございません」
ヴァレリーさんは書類を卓に置いた。
「どの国にもございます。この国にも、東にも、南にも。国境の外に広がっているもの、とお考えください」
*
私はうまく飲み込めなかった。
村には礼拝堂があった。石の小さな建物で、屋根に鐘が下がっていた。年に何度か、坊さんが回ってきて、そこで話をした。
冬に一度、夏に一度。そのくらいだ。
誰も来ない月のほうがずっと多かったので、私は礼拝堂を空き家のようなものだと思っていた。
「あの、うちの村にもありました」
「礼拝堂にございましょう」
「はい」
「あれの元になっているものです」
*
「その人たちが、なぜ来るんですか」
「陛下にお会いになりたいと」
「私に」
「はい」
「なぜでしょう」
ヴァレリーさんは、少しのあいだ黙った。
「陛下のことが、外に伝わっております」
「私の」
「夏のことが」
*
使者が着いたのは、四日後だった。
馬車が二台と、馬が六頭。荷は少ない。
先頭の馬車から降りてきたのは、白い上着を着た男だった。五十を過ぎているように見える。背が高く、痩せていて、歩き方が静かだった。
その人は門の前で立ち止まり、あたりを見た。
門番を見た。並んでいる者を見た。石畳を見た。
それから、私を見た。
*
「ベルナールと申します」
その人はそう名乗った。
「エリアスです」
「存じております」
ベルナールさんは、深く頭を下げた。
頭を下げてから、しばらく上げなかった。ヴァレリーさんもアンリさんもそうすることがあるが、この人のは少し違った。
膝が動いた。
膝をつこうとしているのだと分かって、私は慌てた。
「そういうのは、いいです」
*
その日、私はこの人を城の中へ通した。
部屋を用意させ、食事を出した。二度目のことなので、私は少し慣れていた。ドナートさんのときに学んだからだ。出しすぎないようにした。
ベルナールさんは食べた。
全部は食べなかったが、半分ほど口にした。それから水を飲んで、布で口を拭った。
私はそれを見ていた。
この人も食べる人だ、と思った。
*
その夜、ベルナールさんは城を歩いた。
案内が要るかと聞いたら、要らないと言われた。一人で見せていただきたい、と。
私は許した。
次の朝、ベルナールさんは目の下を黒くして現れた。
「眠れませんでしたか」
「眠っておりません」
ベルナールさんは言った。
「歩いておりました」
*
「城の中をですか」
「はい。それから、街も」
「夜にですか」
「はい」
私は少し心配になった。
「暗かったでしょう」
「暗うございました」
ベルナールさんは言った。
「灯りが、一つもございませんでした」
*
「みんな、要らないんです」
私は言った。
「なぜでしょう」
「分かりません」
私は正直にそう答えた。
「ずっと不思議だったんですが、聞いても、要りませんと言われるだけで」
ベルナールさんは、私を見ていた。
*
「陛下」
「はい」
「厨房を見ました」
「はい」
「十四人が働いておりました。夜中にでございます」
「そうなんです」
私はうなずいた。
「あの人たちも休まないんです。何度も休んでくださいと言ったんですが」
「何を作っておいででしたか」
「パンだと思います」
私は言った。
「毎朝、焼いてくれます」
*
ベルナールさんは、そこで一度、目を閉じた。
目を閉じたまま、しばらく動かなかった。
私は待った。この人も疲れているのだと思った。夜通し歩いたのだから、当たり前だ。
やがて、目を開けた。
「奇跡でございます」
*
私はその言葉を、聞き返した。
「奇跡」
「はい」
「何がですか」
「この国のすべてが」
ベルナールさんは言った。
「飢える者がおりません。争う者がおりません。病んでいる者もおりません。夜も昼も、誰かが働いております。誰も休まぬのは、休む必要がないからにございます」
「それは」
「私は四十年、司祭を務めております」
ベルナールさんは言った。
「このような場所を、見たことがございません」
*
私は何と言えばいいのか分からなかった。
言われていることは、たぶん合っている。
誰も飢えていない。麦は余っている。喧嘩の話も聞かない。議会には議題がない。街道は直り、井戸は掘られ、橋は架け替えられた。
私が来てから、悪いことは何も起きていない。
それでも、奇跡という言葉は大きすぎる気がした。
「私は何もしていません」
「いいえ」
ベルナールさんは首を振った。
「陛下がいらっしゃいます。それで足りております」
*
その日の午後、ベルナールさんは本題を切り出した。
執務室に、アンリさんとヴァレリーさんも呼ばれた。
「陛下を、聖人と認めたく存じます」
私はその言葉を知らなかった。
「せいじん」
「はい」
「それは、何ですか」
*
ベルナールさんが説明してくれた。
教会が、その人を特別な人だと認めることらしい。認められると、名前が記録に残る。どの国の礼拝堂でも、その名が読み上げられるようになる。
滅多にあることではないという。百年に一人か二人。
しかも死んだあとに認められるのが普通で、生きているうちに認められた例は、これまでに三人しかいないそうだ。
「三人ですか」
「はい。陛下が四人目となります」
*
「どうすればいいんですか」
「何もなさらずとも」
ベルナールさんは言った。
「私が見たままを書き、上へ送ります。それだけにございます」
「それだけで」
「はい」
私はアンリさんを見た。
この人は書類の角を揃えていた。何も言わない。
ヴァレリーさんを見た。
こちらは私を見ていた。いつもどおりだ。
*
「一つ、聞いてもいいですか」
私はベルナールさんに言った。
「なんなりと」
「それは、みんなの役に立ちますか」
ベルナールさんは、少し驚いた顔をした。
「役に、と申しますと」
「麦が増えるとか、病が治るとか、そういうことです」
「それは」
「ないですよね」
「ございません」
*
「では、要りません」
私は言った。
部屋が静かになった。
ベルナールさんは私を見ていた。目を大きくしていた。
「陛下」
「はい」
「お断りになると」
「はい」
「なぜでございましょう」
*
「名前が残っても、何も変わらないからです」
私は言った。
「それより、南の商いのほうが大事だと思います。麦が売れれば、塩と油が買えます。それはみんなに配れます」
ベルナールさんは、しばらく何も言わなかった。
それから、目を閉じた。
また閉じた、と思った。この人はよく目を閉じる。
「ますますでございます」
「え」
「お断りになるところが、ますます」
*
部屋を出るとき、ヴァレリーさんがベルナールさんの肩に手を置いた。
置いて、すぐに離した。
城の人が客に触れるのを、私は初めて見た。
仲良くなったのだろうと思った。
*
その夜、ヴァレリーさんが執務室に残った。
「陛下」
「はい」
「お断りにならないほうがよろしいかと」
「なぜですか」
「あれは、便利なものにございます」
ヴァレリーさんは言った。
「教会が認めれば、他の国が手を出しにくくなります。東も含めて」
「戦をしなくて済みますか」
「そうとは限りません」
ヴァレリーさんは言った。
「ただ、手を出す前に一度考えます。考える者は、動きが遅れます」
*
私は少し考えた。
「では、受けたほうがいいんでしょうか」
「私はそう存じます」
「アンリさんは」
アンリさんは書類を揃えていた。
揃え終えて、顔を上げた。
「お受けにならぬほうがよろしいかと」
「なぜですか」
「聖人というものは」
アンリさんは言った。
「焼かれた者に多うございます」




