第50話:遠方に
王都へ戻ったのは、十二月の半ばだった。
門をくぐると、いつもどおり人が並んでいた。頭を下げて、私が過ぎると元に戻る。荷車が動いている。市の台に品が並んでいる。声はしない。
二ヶ月ぶりだった。
何も変わっていなかった。
*
三階へ上がると、リゼットが廊下に立っていた。
柱の前だった。
「ただいま」
「おかえり」
私は膝をついた。この子と話すときは、いつもそうする。
「待っていてくれたの」
「うん」
「ずっと?」
「うん」
*
柱には、線が一本入っている。
九月にジャンさんが刻んだものだ。この子の頭の高さで、真っ直ぐに入っている。
「まだ測らないよ」
私は言った。
「一年に一度って決めたから。来年の秋にね」
「うん」
「そのころには、もう少し伸びてるよ」
リゼットは線を見た。
それから、私を見上げた。
「森の話して」
*
私は膝の上にこの子を乗せて、話をした。
東の砦のことを話した。雪が降ったこと、山に人がいたこと、その人たちが下りてきたこと。森の話ではないが、この子は聞いていた。
途中で、話すことがなくなった。
二ヶ月ぶんの話を、半刻もしないうちに全部してしまった。
私が城でしていることは、そんなに多くないのだと思った。
*
次の日、私はセシルさんの部屋へ行った。
扉はいつもどおり細く開いていて、灯りが漏れている。中は前より紙が増えていた。床に積んであるものが、私の膝の高さまで来ている。
「陛下」
「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ」
セシルさんは筆を置いた。
左腕をまくって、こちらへ向けた。私が何も言う前にそうしたので、少しおかしかった。
「見てほしいんですね」
「はい」
*
傷は同じだった。
夏に切った線が、切った日と同じ形でそこにある。縁が乾いて、丸くなって、それでも閉じていない。
油を塗った跡があった。表面が艶を持っている。
「効いていますか」
「乾きは遅くなりました」
セシルさんは言った。
「城の者にも順に施しております。指先の色が変わるのが、少し遅くなりました」
「よかった」
「痛みは、変わりません」
*
私はそこで、思い出したことを聞いた。
「リリーベルさんは、戻られましたか」
セシルさんの手が、止まった。
筆を置いたばかりの手だった。卓の上で、指が紙の端にかかったまま動かなくなった。
「……いえ」
「まだ遠方ですか」
「まだ」
「長いですね」
「はい」
*
私は少し考えた。
夏に聞いてから、四ヶ月になる。四ヶ月も帰らない用というのが、どういうものなのか分からない。
「どこにおられるんですか」
「南のほうかと」
「南」
「はい」
「手紙は書けますか」
セシルさんは、私を見た。
「……どうでしょう」
*
この人が言葉に詰まるのを、私は前にも見た。
記録を読み上げていて、一枚飛ばしたときだ。あのときも、私は聞かなかった。
今日も聞かないことにした。
「お会いしたいんです」
私は言った。
「腕のことも、乾きのことも、その方のほうが詳しいんでしょう。教わりたいことがたくさんあります」
「はい」
「戻られたら、教えてください」
セシルさんは、少し間を置いてからうなずいた。
*
セシルさんは、それから紙に何かを書いた。
書いて、途中で止まった。
筆先が紙についたまま、動かなかった。墨が一点に溜まって、じわりと広がるのが見えた。
私はそれを見ていた。
やがて、この人は筆を持ち上げた。
その一枚を、脇へ寄せた。
*
執務室へ行って、アンリさんにも聞いた。
「リリーベルさんという方をご存じですか」
アンリさんは書類の角を揃えていた。
「存じております」
「どういう方ですか」
「宮廷に仕える者にございます」
「セシルさんのお師匠さんだと聞きました」
「さようでございます」
「いま、南におられるとか」
アンリさんの手が、一度だけ止まった。
揃え終えた束を、また揃え直した。
「そのように聞いております」
*
「会えますか」
「陛下がお会いになる筋合いのものではございません」
答えが早かった。
私は少し驚いた。この人がこういう言い方をするのは珍しい。たいていは、陛下がお決めになることです、と言う。
「筋合いというのは」
「役目が違います」
アンリさんは言った。
「あの者は、陛下のお目に触れる役ではございません」
*
私はうまく飲み込めなかった。
「でも、この城にいる人ですよね」
「城の者ではございません」
「では、どこの」
「別に置いております」
それきり、アンリさんは次の紙を取った。
私はその横顔を見た。何か言いかけて、やめた人の顔だった。この人はよくこの顔をする。
*
その日の夕方、ヴァレリーさんが来た。
書類を三つ持っていた。堰と、街道と、南の商いのことだ。ドナートさんの二度目の荷が、来月に決まったという。
私はそれに印を押してから、聞いた。
「ヴァレリーさんは、リリーベルさんをご存じですか」
ヴァレリーさんは、書類を持ち直した。
「存じております」
「どういう方ですか」
「有能な方にございます」
*
「お会いしたいんです」
私は言った。
「アンリさんに聞いたら、役目が違うと言われました」
「さようでございましょうな」
「ヴァレリーさんもそう思いますか」
「思います」
ヴァレリーさんは言った。
「ただし、アンリ様とは違う理由で」
*
私はその言い方に、顔を上げた。
「違う理由」
「はい」
「どういう理由ですか」
ヴァレリーさんは、私を見た。
この人はいつも私の顔を見て話す。城で唯一そうする人だ。
「申し上げられません」
「なぜですか」
「時期ではございません」
*
私は三人に聞いて、三人とも同じことを言ったのだと気づいた。
セシルさんは、まだ遠方だと言った。
アンリさんは、役目が違うと言った。
ヴァレリーさんは、時期ではないと言った。
言い方は全部違う。それでも、会えないという答えは同じだった。
*
夜、私は寝台の上で天井を見ていた。
よほど大事なお役目なのだろう、と思うことにした。
村にも、そういう人はいた。三つ向こうの谷に、山の神事をやる家があると聞いたことがある。誰も会ったことがない。会いに行ってはいけないと言われていた。子供のころ、それが不思議で仕方がなかった。
いまも不思議だ。
けれど、みんなが同じことを言うのなら、そういう決まりなのだろう。
*
目を閉じてから、私はもう一つのことを思い出した。
ヴァレリーさんは、アンリさんとは違う理由だと言った。
わざわざそう言った。
言わなくてもいいことだ。会えません、で終わる話だった。それなのに、あの人は違うと言った。
なぜ言ったのだろう。
考えて、答えは出なかった。




