第46話:一人残らず
十二月に入った。
東の国境は、王都より寒い。朝に外へ出ると、草に霜が降りている。日が短くなって、夕方の稽古が終わるころにはもう暗い。
そろそろ王都へ戻ろうと思っていた。
リゼットに会っていない。ふた月近くになる。柱の印は年に一度でいいと言ったが、あの子が待っているような気がした。
支度を頼んだ日の朝、ギヨームさんに呼ばれた。
*
塔の上だった。
前に来たときと同じ卓に、同じ地図が広げてある。
「小僧」
「はい」
「東の山に、人がおる」
私は地図を見た。
境の少し内側に、細かい線が寄り集まっているところがあった。山だと分かる。線が詰まっているほど急なのだと、前に教わった。
「村がありましたか」
「ない」
ギヨームさんは指をその上に置いた。
「村はない。人はおる」
*
「何人ですか」
「二百ほどだ」
「二百人もですか」
私はその数を、うまく思い描けなかった。フェリエ村の倍だ。それくらいは分かる。
「いつからいるんですか」
「分からん」
「調べていないんですか」
「調べた」
ギヨームさんは地図から指を離した。
「秋に一度、斥候を出した。近づけんかった」
「危ないところなんですか」
「そうではない」
*
「近づくと、退がる」
ギヨームさんは言った。
「こちらが十人で行けば、向こうは奥へ引く。三十で行っても同じだ。追えば、山の中へ深く入っていくだけになる」
「逃げているんですね」
「逃げておる」
「何から」
ギヨームさんは答えなかった。
*
「陛下」
私はその呼び方に、少し身構えた。この人が私をそう呼ぶときは、いつも決まったときだ。
「はい」
「あれは、こちらの民ではない」
「東の人ですか」
「東から来た者だ。ただし、東の兵でもない」
私はうまく飲み込めなかった。
「では、何ですか」
「傭兵だ」
*
傭兵という言葉を、私は知らなかった。
ギヨームさんが説明してくれた。
金で雇われて戦う者たちのことだという。どこの国にも属さず、雇われたほうについて戦い、契約が済めば去る。強い者は一つの国の軍より高くつく。
「そんな人たちがいるんですか」
「おる」
「なぜここに」
「東で負けたのだろう」
ギヨームさんは言った。
「負けて、逃げて、山に入った。夏より前のことだ」
*
夏より前。
私はその言葉のところで止まった。
「夏より前から、あそこにいるんですか」
「そうなる」
「では」
私は地図を見た。
山は、境の内側にある。この国の中だ。
「あの人たちも、この国にいたんですね」
「おった」
「七月にも」
「おっただろうな」
*
私は少しのあいだ、何も言えなかった。
七月にこの国にいた人は、みんな私の民になった。アンリさんがそう言った。
この国の者が、一人残らず望んでおります、と。
あのとき私は、その言葉を数えなかった。一人残らず、というのは、そういう言い方なのだと思っていた。村でも使う。みんな、とか、全員、とか、そういう意味の言葉だ。
二百人。
「ギヨームさん」
「なんだ」
「あの人たちは、私の民ですか」
*
ギヨームさんは、東の山を見た。
塔の上からは、白くなった山の背が見えていた。
「聞こえておるはずだ」
「聞こえる」
「あんたの声が、だ」
私は自分の喉に手を当てた。
声を出した覚えはない。呼んだ覚えもない。それでも、そういうものがあるらしいことは知っている。門に立てば人が並ぶ。夜に言ったことが朝には街の端まで届いている。
「聞こえていて」
私は言った。
「来ていないんですね」
「来ておらん」
*
私はその意味を、しばらく考えていた。
考えて、分かった。
嫌なのだ。
この国に来たくないのだ。二百人が、夏からずっと山にいる。冬になっても下りてこない。斥候が近づけば奥へ逃げる。
私のところへ来たくないから、そうしている。
「ギヨームさん」
「なんだ」
「私は、あの人たちに何かしましたか」
「知らん」
「思い当たることが、ありません」
「なかろうな」
ギヨームさんは言った。
「会うたこともないのだろう」
*
塔を下りてから、私はロランさんを探した。
中庭にいた。
「ロランさん」
「はい」
「東の山に、人がいるそうです」
「存じております」
答えが早かった。
私はそこで一度、息を止めた。
「知っていたんですか」
「はい」
「いつからですか」
ロランさんは、私を見た。
「……夏から」
*
「なぜ言ってくれなかったんですか」
「申し上げる必要がないかと」
「必要はあります」
私は言った。前にも同じことを言った気がした。
「二百人ですよ。冬に、山にいるんです」
「はい」
「凍えます」
「はい」
「食べるものだって」
そこまで言って、私は口を閉じた。
ロランさんが私を見ていたからだ。
*
この人は嘘をつかない。
聞かれたことには答える。答えられないときは黙る。四ヶ月そばにいて、それは分かっている。
いま、この人は黙らなかった。存じております、と即座に答えた。
それなのに、四ヶ月言わなかった。
「ロランさん」
「はい」
「ほかにも、言っていないことがありますか」
ロランさんの口が開いた。
閉じた。
もう一度開いて、また閉じた。
*
私は待たなかった。
待っても同じだと分かっていたし、待たせるのが可哀想だと思ったからだ。この人はよくこうなる。城の人はみんなこうなる。
「いいです」
私は言った。
「疲れているんですね」
ロランさんは頭を下げた。
下げたまま、少し長かった。
*
その日の夕方、私はギヨームさんに言った。
「山へ行きます」
「やめておけ」
「なぜですか」
「逃げるだけだ。あんたが行けば、もっと奥へ入る」
「では、待ちます」
私は言った。
「山の下で待ちます。下りてこなければ、そのまま待ちます」
ギヨームさんは、私を見ていた。
「冬だぞ」
「はい」
「凍える」
「私は平気です」
*
言ってから、それが変な答えだったと気づいた。
平気というのは、確かめたことのない話だ。この冬はまだ寒くなっていない。去年の冬は森にいて、寒かったのを覚えている。手がかじかんで、薬草を刻むのに難儀した。
いまは、そうならない気がする。
なぜそう思うのかは、分からなかった。
*
私は続けた。
「その人たちに、聞きたいことがあります」
「何を聞く」
「なぜ来ないのか、です」
ギヨームさんは、それきり何も言わなかった。
しばらくして、東の山を見た。
「勝手にせい」
*
その夜、私は寝台の上で天井を見ていた。
一人残らず、とアンリさんは言った。
あの言葉を、私はずっと持っていた。玉座に座ると決めたのは、あれを聞いたからだ。全員が望んでいるなら、断る理由がない。そう思った。
二百人が、山にいる。
あの言葉は、間違っていたことになる。
*
アンリさんが嘘をついたとは思わなかった。
あの人が数を間違えるはずがない。四十年ぶんの数字を全部覚えている人だ。井戸の数も、橋の年も、麦の穫れ高も、聞けばすぐに出てくる。
だとすれば、数えなかったのだ。
あの人にとって、あの二百人は、この国の者に入っていなかった。
外から来た人たちだから。
*
それなら、話は簡単だと思った。
入れてもらえばいい。
冬のあいだ、山にいる理由はない。家がある。麦が余っている。五つの村の人たちのために用意した土地も、まだ空いている。
二百人くらい、どうということはない。
私は明日、山へ行くことにした。




