第44話(幕間):仕事
「ユーグ、右の端だ」
ギヨーム様がそう言われたので、俺は右の端に立った。
斜面の上に、横一列。八百人。
命令は三つだった。この線から下りるな。仕掛けるな。来たら押し返せ。
簡単な命令だ。俺のような者にも間違えようがない。
*
待つあいだ、俺は何も考えていなかった。
草の斜面で、風が下から吹き上がってくる。空は曇っていた。
腹が痛かった。
夏に開いた穴が、まだそのままある。塞がらない。痛みは減らない。増えもしない。同じ痛さがずっと続いている。
最初のころは、これに慣れることはないと思っていたが、慣れた。
正確には慣れるより他にないと分かっただけだ。
*
東の兵が来たのは、昼を過ぎてからだった。
三百ほど。斜面の下に並んで、それからこちらへ駆け上がってきた。
叫んでいた。
あれは、俺も昔やった。声を出さないと足が出ない。南の村にいたころ、初めての戦のときに、班長がそう教えてくれた。叫べ、と。叫べば怖くなくなる。
いまは叫ばない。
叫ぶ必要がないからだ。
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当たった。
俺は槍を構えて、教わったとおりに受けた。穂先を下げて、相手の胴を狙う。腰を落とす。足を前に出しすぎない。
春に教わって、夏に一度も使わないうちに死んだ型だ。
いまは使える。
手が震えないからだと思う。震えなければ、教わったとおりに動く。それだけのことで、槍というものはずいぶん当たるようになる。
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目の前に、若い男が来た。
俺と同じくらいの年に見えた。革の胴着で、頬に泥がついていた。
叫びながら突いてきた。
俺は半歩右へ出て、その槍を外した。外してから、自分の槍を戻した。
喉に入った。
男は膝から落ちた。手が槍を離した。倒れる途中で一度こちらを見た。
それから、動かなくなった。
*
何も感じなかった。
これは正確に書いておきたい。
嫌だとも、怖いとも、済んだとも思わなかった。うまくやったとも思わなかった。
鍬で土を起こしたときのほうが、まだ何か感じた。
村で畑をやっていたころ、朝いちばんの一鍬は手に響いた。土が硬いからだ。あれは感じた。
だが、今回は何も感じなかったんだ。
*
それが怖い。
人を殺して何も感じないというのは、たぶんおかしい。俺はそれを知っている。
知っているのに、手が止まることはなかった。
次の男が来たので、今度は腕を狙って武器を奪った。
三人目も来た。三人目にはうまく交わされたが、それでも追い払うことには成功した。
*
左のほうを見た。
同じことが起きていた。
八百人が、同じ速さで動いていた。
誰も前に出ていない。誰も退がっていない。線がまっすぐ保たれたまま、その線の上で手だけが動いている。
音がしていた。
鉄が当たる音と敵の悲鳴。それだけだ。
こちらから声を出す者はいなかった。
*
あれを見ながら、俺は麦のことを思い出していた。
九月に刈り入れがあった。八百人ではなく、六万人だった。列になって、同じ向きに、同じ速さで進んだ。しゃっ、しゃっ、という音が地平の向こうまで続いていた。
誰も止まらなかった。休む者もいなかった。
いまと同じだった。
腹に穴が空いてるせいか、なんだか気分が悪くなった。
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東の兵が崩れたのは、そのすぐあとだった。
一人が背を向けて、そこから一気に広がった。
俺たちは追わなかった。
命令が、この線から下りるな、だったからだ。
右の端も、左の端も、誰一人下りなかった。八百人が斜面の上に立って、走っていく背中を見ていた。
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崩れたとき、俺はギヨーム様のほうを見た。
中央の少し後ろに立っておられた。
東の兵が背を向けたのを見て、あの方は一歩前に出られた。
何か言われるのだと思った。追え、だと思った。こちらは八百で、向こうは崩れている。追えば片がつく。畑を荒らされることも、村が焼けることも、なくなる。
だが、言葉は無かった。
口が僅かに開いて、一度息をお吸いになっただけだ。
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しばらくしてから
「線を保て」
という、いつも通りの声が響いた。
俺たちは線を保った。
*
あとになって、少しだけ考えた。
ギヨーム様は二十年、東と戦って負け続けたと聞いている。俺が生まれる前からだ。
いまは負けない。
崩れない。退がらない。誰も欠けない。二十年欲しがっておられたものが、恐らく全部あそこにはあった。
それなのに、あの方は東を見ておられた。
勝ち誇る顔ではなかった。
*
こういうとき、昔は声が出た。
勝ったときは、誰かが必ず叫んだ。叫ばなくても、隣の男の肩を叩いた。生きているのを確かめるためだ。
いまはやらない。
確かめる必要がない。
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敵が見えなくなってから、後片付けをした。
斜面には東の兵が残っていた。数えると十五人。
四人は動いていた。腹をやられた者が二人と、脚の者が二人。
俺たちは運んだ。
布を巻いて、水を飲ませて、砦へ入れた。ギヨーム様が布を出せと言われたのは、ひと月ほど前からだ。それまで布はなかった。
運びながら、一人が何かを呟いていた。
か細い声で恐らく、やめてくれ、と言っていたのだと思う。
*
残りの十一人を運びに戻ったとき、一人が起き上がった。
斜面の下のほうにいた男だった。
膝を立てて、手をついて、身体を起こした。
次に、その少し上にいた者が起きた。
それから二人。残りが順に起きてきた。
半刻もかからなかったと思う。
十一人が斜面に立って、互いを見ていた。
名を呼び合っている者がいた。誰かが誰かの肩を掴んで揺すった。一人は膝をついて、地面を叩いていた。
「おれは、どうなった」
そのうちの一人が、そう言った。
誰も答えなかった。
うるさかった。
こんなに声のする場所は、久しぶりだったから。
運ぶ必要はなくなった。十一人は自分で歩いたからだ。
列に入れと言うと、大人しくそれに従った。東へ帰りたいと言う者は、一人もいなかった。
皆、西の方角に耳を傾けるような仕草をしながら、ゆっくりと歩いていった。
*
その夜、砦の中で、運んだ四人のうち一人が動かなくなった。
腹をやられていたヤツだ。
『水が欲しい』と言うので取りに行き、戻ると動いていなかった。
だがしばらくして、ヤツも起き上がった。
起き上がるとヤツも十一人と同じように自分の傷を見た。
それから、周りを見た。
俺と目が合った。
俺はその顔を見て、たぶん以前の自分もこういう顔をしていたのだろうと思った。ギヨーム様が起きて、俺が起きて、四人の担架持ちが起きて、そこらじゅうで人が起きた。
あのとき、俺は何を思ったか。
もう思い出せない。
ヤツは言った。
「水をくれ」
俺は再び水を取りに行った。
朝までに、あとの三人も動かなくなり、そして起き上がった。
*
三百で来て、十五人を置いていった。
その十五人が、いま、こちらの列にいる。
差し引きで三十人だ、とギヨーム様が言われた。
俺はその数え方を、それまで知らなかった。
*
次の日、ギヨーム様が俺を呼んだ。
「怪我はないか」
「ありません」
「そうか」
行こうとすると、呼び止められた。
「前の陛下は、半分しか下さらなんだ。兵も、金も、槍もだ」
「はい」
「いまの陛下は、全部下さる」
そこで一度、切られた。
「攻めることだけは、下さらん」
俺は何と言えばいいのか分からなかった。
「それでもな」
ギヨーム様は東を見られた。
「守れとは、言うてくださった」
それだけ言って、行ってしまわれた。
俺はその場に残って、背中を見ていた。
*
言われたことの半分は分からなかった。
俺の腹には、握り拳ほどの穴が開いている。ギヨーム様はそれをご存じだ。ご存じの上で、怪我はないかと聞かれる。
ないと答えるのが、たぶん正しい。
あれは怪我ではない。怪我というのは治るものだろ?




