第41話:帰しましょう
次の朝、ミカさんは食事に手をつけなかったという。
部屋を訪ねると、寝台に座っていた。眠っていない顔だった。上着はかけたままで、身体を丸めている。
「おはようございます」
「……ああ」
「食べていないと聞きました」
ミカさんは答えなかった。
卓の上に、昨日と同じものが載っていた。パンも豆も、置いたときのままだ。
「口に合いませんでしたか」
「そうじゃない」
「では」
「食えん」
*
私はその言い方に、覚えがあった。
ドナートさんだ。
あの人も二日目から食べなくなった。魚を焼かせても一口で止まった。三日目の夜には、私に何も言わずに発っていた。
「ドナートさんもそうでした」
私が言うと、ミカさんが顔を上げた。
「誰だ」
「南から来た商人です。ふた月ほど前に。麦を買いにきてくださって」
「その男は」
「三日で帰りました」
ミカさんは、私を見ていた。
「帰れたのか」
「はい」
ミカさんは、少しのあいだ何も言わなかった。
*
私はその日、ずっとそのことを考えていた。
この国にいると、外から来た人は具合が悪くなるらしい。
ドナートさんもそうだった。ミカさんもそうだ。二人とも三日目にはものを食べなくなり、眠れなくなり、顔色が悪くなった。
何かが合わないのだと思う。水か、空気か、食べ物か。
私には分からない。分からないが、置いておけば悪くなるのは分かる。
だから、決めた。
*
「ミカさんを帰します」
執務室でそう言うと、ヴァレリーさんが手を止めた。
「帰す、と仰せですか」
「はい」
「東へ、でございますか」
「東の人ですから」
ヴァレリーさんは書類を卓に置いた。
この人がそうするのは珍しい。いつもは持ったまま話す。
「陛下。あの者は斥候にございます」
「はい」
「国境の帯を探っておりました。こちらの兵の数も、配置も、見ております」
「そうですね」
「帰せば、それが全て向こうへ渡ります」
*
私はうなずいた。
「渡りますね」
「お分かりでしょうか」
「はい」
「では」
「でも、あの人は死んでしまいます」
私は言った。
ヴァレリーさんの動きが、一瞬止まった。
*
「食べられないんです」
私は続けた。
「昨日から何も。眠ってもいません。ドナートさんも同じでした。あのまま置いておいたら、たぶんもっと悪くなります」
「牢を替えれば」
「牢には入れていません」
「では部屋を」
「部屋の問題ではないと思います」
私は自分の手を見た。
「この国にいると、外の人は具合が悪くなるみたいなんです。なぜかは分かりません。でも、二人とも同じでした」
ヴァレリーさんは何も言わなかった。
*
「陛下」
しばらくして、ヴァレリーさんが言った。
「あの者を返せば、我が国には必ず不利益をもたらします」
私はその言葉に、身体が固くなった。
「不利益ですか」
「戦にもなりましょう」
「戦にはしません」
「陛下」
ヴァレリーさんは私を見た。
「戦というものは、するかしないかを陛下がお決めになるものではございません」
*
私は言い返せなかった。
この人の言うことは、たいてい合っている。合っているから、私は毎回黙ることになる。
国境には、いま兵士がいる。私が集めろと言ったわけではないのに集まった。私が進めと言わなくても進んだ。
あれと同じことが、また起きるのだろう。
それでも。
「ミカさんは、いま死にかけています」
私は言った。
「戦になったら誰かが死ぬかもしれない、というのと、ミカさんがこのまま弱っていく、というのは、別のことだと思います」
「同じでございます」
「違います」
私は言った。
「目の前にいる人は、目の前にいます」
*
村では、そうしていた。
誰かが倒れたら、まず運ぶ。運んでから、なぜ倒れたのかを考える。順番を逆にすると婆さんに叱られた。考えているあいだに死ぬからだ、と。
私はそれしか知らない。
国のことは分からない。戦のことも、境のことも、どれだけの兵がどこにいるのかも、聞いてもすぐに忘れる。
倒れている人を運ぶことだけは、分かる。
*
執務室が静かになった。
ヴァレリーさんは、私を見ていた。何か言おうとしているように見えた。
その口が開いて、閉じた。
私はそれを見た。この人はよくそうなる。疲れているのだと、いつも思う。
「アンリさん」
私は横を向いた。
「どう思いますか」
*
アンリさんは、書類の角を揃えていた。
揃え終えてから、顔を上げた。
「帰されるのがよろしいかと」
私は少し驚いた。
この人は、こういうときにいつも同じことを言う。陛下がお決めになることです、と。今日は違った。
「アンリさんも、そう思いますか」
「思います」
「よかった」
「陛下」
アンリさんは言った。
「早いほうがよろしゅうございます」
「早いほうが」
「はい。本日中にでも」
*
「宰相どのの申されることは、正しゅうございます」
アンリさんは続けた。
「あの者は見たものを持ち帰ります。兵の数も、道の様子も」
「では、なぜ」
「それでも、早いほうがよろしゅうございます」
私はその理由を聞かなかった。
この人が二度同じことを言うのは珍しい。よほどそう思っているのだと考えた。
*
ヴァレリーさんが、アンリさんのほうを見た。
二人の目が合った。
私はそのとき、二人が何かを言い合ったような気がした。声は出ていない。口も動いていない。それでも、何かが行き来した。
やがてヴァレリーさんが、書類を持ち直した。
「かしこまりました」
「いいんですか」
「陛下がお決めになったことにございます」
その言い方に、いつもの調子はなかった。
*
その日のうちに、支度が整った。
馬を一頭。四日ぶんの食糧。水袋。上着。国境まで護送し、そこで放す。手は縛らない。
私が言ったのは、帰します、の一言だけだ。
あとは全部、誰かが決めた。
夕方、私はミカさんの部屋へ行った。
「帰れます」
私が言うと、ミカさんは寝台から立ち上がった。
「本当か」
「はい。明日の朝に出ます」
ミカさんは、しばらく私を見ていた。
それから、聞いた。
「なぜだ」




