第40話:私もです
その人が落ち着くまで、私は待った。
二度目のときは、もう何も出なかった。空えずきが続いて、そのうち身体が動かなくなった。床に手をついたまま、肩で息をしていた。
私は水差しを近くへ寄せた。
しばらくして、その人は手を伸ばした。水差しを掴んで、口をつけて、一息に半分ほど飲んだ。
飲んでから、袖で口を拭った。
*
「すみません」
私は言った。
「私が近づいたから、驚かせてしまいました」
その人は答えなかった。
顔は上げていた。私を見ている。目が赤い。
「布を持ってこさせます。床は、あとで誰かが拭きますから、気にしないでください」
その人は動かなかった。
「お名前を、聞いてもいいですか」
その人は答えなかった。
当たり前かもしれない、と思った。捕まっている相手に名前を聞かれて、素直に言う人はいない。村でも、悪さをした子は名前を聞かれると黙った。
*
その人が、息を吸った。
吸って、止めて、それから吐いた。何か言おうとしているのだと分かった。
私は待った。
「あんたは」
声はかすれていた。
「はい」
「あんたは、それでも人間か」
*
私は少し考えた。
考えるようなことではないのかもしれない。けれど、この人は本気で聞いていた。ふざけて言っているのではないことは、顔を見れば分かった。
「人間です」
私は答えた。
ほかに答えようがなかった。
その人の顔が、また変わった。
*
どう変わったのかを、私はうまく言えない。
怒っていたのが消えた。それは分かった。代わりに何が来たのかが分からなかった。泣く直前の顔にも見えたし、大きな音を聞いた直後の顔にも見えた。
その人は口を開けて、閉じた。
もう一度開けて、また閉じた。
私はそれを見て、城の人たちを思い出した。アンリさんも、ヴァレリーさんも、マルグリット婆さんも、みんな同じところで黙る。この人も同じことをしている。
都の作法ではないのだ、と私はそのとき初めて思った。
*
その人が言った。
「ミカ」
「はい」
「ミカという。三番隊の斥候だ」
「エリアスです」
私はもう一度名乗った。さっきは肩書きしか言えなかったような気がしたからだ。
「ミカさん」
返事はなかった。呼ばれ慣れていない名の呼ばれ方をしたときの顔をしていた。
「上着を持ってこさせます。ここは冷えるので」
*
私はミカさんを別の部屋へ移させた。
玉座の間は広すぎるし、人が多い。壁際に百人が立っている部屋で話をするのは、私も落ち着かなかった。
小さい部屋に卓を出して、二人で座った。
外に兵が二人立ったが、扉は開けておいてもらった。閉めると怖いだろうと思った。
食事を運ばせた。パンと、豆と、干した果実。ジャンさんが焼いたパンだ。
ミカさんは見ていた。
「毒は入っていません」
私が言うと、ミカさんは少し笑ったように見えた。笑いではなかったかもしれない。
「いただこう」
そう言って、手を伸ばした。
*
食べているのを、私は見ていた。
噛む回数が一定していなかった。途中で水を飲んだ。パンの硬いところで手間取って、指を使った。
嬉しかった。
この人は食べる。ドナートさんもそうだった。城の人たちは、どうしてか食べない。私が量を増やさせても、遠慮して戻してしまう。
「おいしいですか」
「……ああ」
「よかった」
*
半分ほど食べて、ミカさんは手を止めた。
しばらく皿を見ていた。
それから、顔を上げた。
「あんたに聞きたい」
「はい」
「ここへ来る途中に、五十人ほどの兵に囲まれていた」
「そうですか」
「五日だ。五日のあいだ、あいつらは一度も飯を食わなかった」
私はうなずいた。
「そうなんです」
*
私は身を乗り出した。
この話ができる相手が、ようやく現れたと思った。
「みんなそうなんです。食べないんです」
「あんた」
「城の人も、街の人も。私が量を増やさせても、遠慮して戻してしまって。倉に山になっていました」
「あんた、それを」
「困っています」
私は言った。
「どうすれば食べてくれるのか、ずっと考えているんですが、分からなくて」
ミカさんは、私を見ていた。
口を力なく開けたまま。
*
それから、ミカさんは卓に手をついた。
両手をついて、顔を伏せた。
肩が動いていた。泣いているのかと思ったが、声がしない。
「ミカさん」
顔を伏せたままだった。
「大丈夫ですか」
顔を上げた。
目が赤いままだった。
「頼みがある」
ミカさんは言った。
*
「なんでしょう」
「休ませてやってくれ」
声が震えていた。
「頼むから、あの人たちを休ませてやってくれ」
*
私は驚いた。
この人は、うちの兵のことを言っているのだと思った。
砦で見た。骨が鳴るまで打ち合って、それでも止めない。折れた腕を垂らしたまま剣を持ち直す。夜も立っている。誰も休まない。
私は何度も言った。休んでくださいと。命令にもした。街が止まった日もあった。
それでも、誰も休まなかった。
「そう思いますか」
私は聞いた。
「……思う」
「私もです」
*
ミカさんは、動かなかった。
「ずっとそう思っています」
私は言った。
「何度も言いました。休んでくださいと。一度は命令にもしました。みんな家に帰って、何もしないでくださいと」
ミカさんは動かなかった。
「そうしたら、街が止まりました。誰も何もしないで、ただ座っているんです。休み方が分からないと言われました。思い出せない、と」
私は自分の手を見た。
あのときのことを思い出すと、いまでも落ち着かない。広場に二百人が座って、私が何か言うのを待っていた。
「私の言い方が悪かったんだと思います」
卓に置かれた手が、皿の縁を掴んでいた。
「あなたも、そう見えますか。休ませたほうがいいと」
*
長い間があった。
ミカさんは、私を見ていた。まばたきを何度かした。それから、天井のほうへ目を動かして、また私に戻した。
「見える。だが」
ミカさんは言った。
「よかった」
私は言った。
「私だけがそう思っているのかと、心配していました」
*
ミカさんは、それきり何も言わなかった。
私はもう少し話したかった。東の国のことを聞きたかったし、休ませ方についても相談したかった。この人は分かってくれる。
けれど、顔色が悪かった。
「今日はここまでにします」
私は立ち上がった。
「ゆっくり休んでください。部屋を用意させます。誰も入りませんから」
扉のところで、私は振り返った。
ミカさんは卓に着いたまま、もう私を見ていなかった。




