第39話:あんたは、なんだ
「東の手のものを捕らえました」
ヴァレリーさんがそう言ったとき、私は書類に印を押している途中だった。
手が止まった。
「本当ですか」
「斥候にございます。国境の帯を探っておったところを、五日前に」
「怪我は」
「軽い擦り傷のみと」
「よかった」
私は言った。
*
会いたい、とすぐに思った。
思ってから、それが変なことなのかどうか分からなくなった。捕らえた相手に会いたいというのは、都では失礼にあたるのかもしれない。
「会えますか」
「王都へ護送しております。三日ののちに着きます」
「そうですか」
私は嬉しくなって、そのあとで少し恥ずかしくなった。
この人は敵だ。国境を探っていた。それを喜ぶのは、たぶん間違っている。
けれど、他国の人に会えるのは、ドナートさん以来だった。あれからふた月近く経っている。
「あの」
「はい」
「その人は、何を食べていますか」
「食事は与えております」
「食べていますか」
「食べております」
私はそれを聞いてなぜか安心した。
*
三日のあいだ、私はいろいろ考えた。
何を話そうか。
東の国のことを聞きたかった。どんな家に住んでいて、何を食べて、どんな歌を歌うのか。ドナートさんには海のことを聞いたが、途中で聞くことがなくなってしまった。今度はもっとうまくやりたい。
それから、謝らなくてはいけないと思った。
その斥候は捕まっている。こちらの兵に。私が助けましょうと言ったせいで集まった兵に。
大きな怪我をしていないのは幸いだった。
*
三日目の午後、着いたと報せがあった。
私は玉座の間へ行った。
その部屋を使うのは、戴冠の日以来だった。ふだんは執務室にいる。ここは天井が高くて、声が反響して、人が多すぎる。
行ってから、しまったと思った。
人がいた。
両側に人垣ができていた。数えていないが、百人は超えている。私が玉座の間へ行くと言ったので、集まったのだろう。誰が呼んだわけでもない。
「あの」
私は近くの者に言った。
「みなさん、下がってもらえますか」
全員が下がった。
下がって、壁際に並んだ。部屋から出ていく者はいなかった。
私はもう一度言おうとして、やめた。言えば、そのとおりになる。けれど、そのとおりにしても、この人たちはどこかに立っているのだと思った。
*
扉が開いた。
兵が二人、その男を連れてきた。
二十歳くらいだった。細い身体で、革の胴着を着ている。両手を前で縛られていた。土で汚れていて、髪が乱れていた。
顔を上げなかった。
床を見たまま、部屋の中央まで歩いてきた。
私は玉座から降りた。
降りて、そちらへ歩いた。
*
私が近づくと、その人は顔を上げた。
目が合った。
その顔を、私は見た。
白かった。血の気がない、という言い方があるが、そういう白さだった。唇が乾いて、皮がめくれている。目の下が黒い。
眠っていないのだと思った。
「大丈夫ですか」
私は言った。
その人は答えなかった。
「怖くないですよ」
私は言った。
「何もしません。誰もしません。ここでは、誰も人を傷つけないので」
*
その人の身体が動いた。
小さく、震えていた。
寒いのかもしれないと思った。十一月で、この部屋は石なので冷える。上着を持ってこさせようと思った。
「お腹は空いていませんか」
私は聞いた。
「食べていると聞きました。でも、道中は大変だったでしょう。温かいものを出させます」
その人は、私を見ていた。
まばたきをしていなかった。
「それから、縄を解いてください」
私は後ろの兵に言った。
兵が縄を解いた。
*
その人の手が自由になった。
手首に跡がついていた。赤くなって、少し腫れている。
私は手を伸ばした。
村でそうしていたからだ。誰かの手が痛そうなときは、まず触って確かめる。腫れているのか、折れているのか、ただ擦れただけなのか。触れば分かる。
指が触れる前に、その人が退がった。
*
二歩、後ろへ下がった。
背中が壁の手前で止まった。逃げ場がないと分かったのだと思う。
その人は私を見ていた。
口が開いていた。息が速かった。胸が大きく上下している。
喉が鳴った。
それから、吐いた。
*
床に膝をついて、吐いた。
何度も吐いた。出るものがなくなっても、まだ身体が動いていた。背中が大きく波打って、そのたびに喉から音が出た。
私は駆け寄った。
「大丈夫ですか」
背中に手を置こうとした。
その人は身をよじって、私の手から逃れた。
逃れながら、まだ吐いていた。
*
両側の人垣は、動かなかった。
百人が壁際に立って、それを見ていた。誰も駆け寄らなかった。誰も声を上げなかった。
私が振り返ると、全員が頭を下げた。
「水を」
私が言うと、一人が動いた。
水差しを持ってきて、私に渡した。私はそれを受け取って、その人の前に置いた。
その人は水を見た。
見て、動かなかった。
*
私はしゃがんだまま、待っていた。
やがて、その人が顔を上げた。
口の周りが濡れていた。目に涙が溜まっていた。吐いたときに出るあれだと思った。
その人は、部屋を見た。
壁際の百人を、端から端まで、ゆっくりと見た。
私はその視線を目で追った。
人が並んでいた。同じ間隔で、同じ姿勢で、壁に沿って立っている。誰も動いていない。誰も喋っていない。私が振り返ったときだけ一斉に頭を下げて、それからまた元に戻る。
私にとっては、いつもの光景だった。城のどこへ行ってもそうなっている。廊下にも、階にも、中庭にも、厨房にも人が立っていて、私が通ると頭を下げる。夜も同じだ。ふた月のあいだ、ずっとそうだった。
どこを見て、この人はこうなっているのだろう。
分からなかった。
その人が、私を見た。
*
「あんたは」
初めて声を出した。
かすれていて、聞き取りにくかった。
「はい」
「あんたは、なんだ」
私はその問いの意味が分からなかった。
名乗りが足りなかったのだと思った。私はまだ名前を言っていない。
「エリアスです」
私は言った。
「この国の王をしています」
その人は、また吐いた。




