第4話:どこにも行かなかった
朝、村へ降りると、マルグリット婆さんが石の上に座っていた。
いつもの場所だった。村の入口の、道が広くなったところにある平たい石。四十年そこに座っていると言われている石だ。
「おはようございます」
「ああ」
「よく眠れましたか」
婆さんは少し黙ってから、うなずいた。
私は嬉しくなった。家に帰り着いたのが夜遅くだったので、疲れているのではないかと心配していた。三日も土の中にいたのだから、身体が休息を欲しがるはずだった。
考えてみれば、私はこの人が眠るところを見たことがない。誰かが眠るところを見る機会など、そうあるものではない。
私は懐から包みを出した。森で採った木の実と、ジャンの窯からもらってきたパンが一切れ入っている。
「食べてください」
婆さんはそれを受け取った。膝の上に置いて、包みを開いた。そして、そのままにした。
「あとでいただくよ」
「昨日から何も食べていないでしょう」
「腹が減らないんだよ」
「病み上がりですからね」
私はそう言って、それ以上勧めなかった。無理に食べさせて吐かせるより、身体が欲しがるまで待つほうがいい。リゼットのときと同じだった。
そういえば、と私は思った。
リゼットも、まだ何も食べていない。
「今日、墓地に行きます」
婆さんは私を見た。
「六人います」と私は言った。「病で死んだ人が、あとお六人。あの人たちも、きっと待っています」
「エリアス」
「はい」
婆さんは口を開いて、閉じた。
それから、腰を上げた。
「ついていくよ」
*
墓地は朝の光の中で、静かだった。
楡の葉が動いていて、地面に落ちる影が絶えず形を変えていた。土の盛り上がりが六つ、並んでいる。名前は刻まれていない。木の板が一枚ずつ立っているだけだ。
いちばん手前が、四日目に死んだピエールだった。
十二歳の子で、村の子供の中でもいちばん足が速かった。私が薬草を配りに行くと、必ず横から手を出して余分に持っていこうとする。悪気があるわけではなく、そういう年ごろだった。
私は土を掘った。
昨日より手際がよくなっていた。どのくらいの深さに埋まっているか見当がつくし、布のどこに結び目があるかもわかる。二度目というのは、それだけで違うものだ。
顔が出た。
私は土を払って、額に触れた。
ピエールは、すぐに目を開けた。
「あ」
そして、起き上がった。土を払いながら、あたりを見回した。まだ半分ほど埋まったままだったが、自分で腕を突っ張って這い出してきた。
「エリアス兄ちゃん」
「おはよう」
「なんで俺、こんなとこにいるの」
「病気だったんだ。覚えてる?」
ピエールは首を傾げた。それから、自分の手を見た。爪の間に土が入っている。それをズボンで拭いた。
「腹減った」
「何か持ってくるよ」
「いや、減ってないや」
ピエールは言い直した。そして、けろりとした顔で私を見た。
「変なの。減ってると思ったのに、全然減ってない」
「病み上がりだからだよ」
「ふうん」
ピエールは立ち上がって、その場で二、三度、跳ねた。
「軽い」
「え」
「なんか軽いよ、俺」
そして走り出した。墓地の端まで駆けていって、また戻ってきた。息を切らしていなかった。
「速いよ、俺。すごい速い」
「転ばないようにね」
「兄ちゃん、すごいね」
ピエールは私を見上げて言った。
「病気って、治るんだね」
私は返す言葉に詰まった。この子がどこまで理解しているのか、私にはわからなかった。けれど、嬉しそうにしているのだから、それでいいのだと思った。
婆さんは楡の下に立って、こちらを見ていた。
*
二つ目の土を掘った。
出てきたのは、アガットさんだった。村の礼拝堂を守っていた人で、五十を過ぎている。司祭がいない村なので、この人が代わりに祈りを唱えていた。子供が生まれれば名前を授け、人が死ねば送りの言葉を読んだ。
この人は、私に薬草の名前をいくつか教えてくれた人でもある。文字が読めない私のために、葉の形を地面に描いて教えてくれた。
額に触れた。
アガットさんは目を開けた。
そして、動かなかった。
仰向けのまま、空を見ていた。楡の葉の隙間から差す光が、その顔の上で揺れていた。私は待った。ピエールのようにすぐ起き上がる人もいれば、婆さんのように時間のかかる人もいる。
「アガットさん」
返事はなかった。
「私です。エリアスです」
アガットさんの唇が動いた。
私は身をかがめて、耳を近づけた。
「わたしは」
その声はほとんど息だった。
「わたしは、どこにも行かなかった」
「え」
「どこにも」
アガットさんは繰り返した。
「何もなかった。門も、光も、裁きも、何も。わたしは、ただ、いなかった」
私にはその意味がわからなかった。
この人は三十年、村の礼拝堂を守ってきた。冬の朝でも火を入れ、誰も来ない日でも祈りを唱えていた。私はその送りの言葉を、七日のあいだに七度聞いた。
送られた者は、光の差す場所へ行く。そこには裁きがあり、その先には安らぎがある。アガットさんはそう読み上げていた。棺のない葬いの前で、何度も。
「疲れているんですね」と私は言った。「起こしますから、掴まってください」
私が腕を差し出すと、アガットさんはそれを掴んだ。強い力だった。掴んだまま、私の顔を見た。
「あなたがやったのですか」
「助けました」
「戻したのですか」
「はい」
アガットさんは私の腕を掴んだまま、しばらく動かなかった。
その目に何が浮かんでいたのか、私は今でもうまく言い表せない。怒りではなかった。悲しみとも違った。もっと深いところにある、名前のついていない何かだった。
やがて、アガットさんは私の腕を離した。
自分で立ち上がって、服の土を払った。丁寧に、裾から順に。それは昨日、婆さんがしたのと同じ動きだった。
「ありがとうございます」
アガットさんは言った。
そして礼拝堂の方へ歩いていった。一度も振り返らなかった。
*
残りの四人も、順に掘った。
粉屋の奥さんのベルトさんは、起き上がってすぐ旦那さんの名を呼んだ。私は、粉屋さんは今いないと答えた。どこに行ったのかと聞かれたので、わからないと答えた。ベルトさんはもう一度、旦那さんの名を呼んで、それから家の方へ帰っていった。
あの人が土の下にいるあいだに、旦那さんは荷を積んで出ていった。そのことを、どう伝えればいいのか私にはわからなかった。
若いマノンさんは、起き上がって、婚約者の名を言った。同じ答えを返すと、その場に座り込んで、動かなくなった。私が手を貸そうとしても立たなかった。膝を抱えて、掘り返された土を見ていた。
日が高くなるまで、そこに座っていた。
年寄りのギさんは、何も聞かなかった。目を開けて、私の顔をしばらく見て、それからうなずいた。自分で立ち上がり、自分で土を払い、村へ歩いていった。何十年も畑に出ていた人の歩き方だった。
私はその背中を見送りながら、少し気が楽になった。何も聞かれないというのは、ありがたいことだった。
最後の土は小さかった。
生後半年の子だった。名前は、まだついていなかったかもしれない。私は布を開いて、その額に指を触れた。
目が開いた。
私は抱き上げた。軽かった。首が据わりかけたくらいの重さで、腕の中でわずかに身じろぎした。
泣かなかった。
赤ん坊というのは泣くものだと思っていた。目が覚めれば泣くし、腹が減れば泣く。この子は、目を開けたまま私を見上げていた。まばたきもせず、声も立てず、ただ見ていた。
「おとなしいね」
私は言った。
母親は村を出ていた。東の道の轍の中に、この子の母親のものもあったはずだ。私はそのことを、このときは考えなかった。あとで迎えに来るのだろうと思っていた。
「大丈夫。私がいるよ」
赤ん坊は、私を見ていた。
*
その日から、村には十人が暮らすようになった。
私と、マルグリット婆さん。リゼットと、その父のジャンさん、母のクロエさん。それに、私が墓地から連れ帰った六人。走り回るピエール、礼拝堂に籠もったアガットさん、夫の名を呼んだ粉屋のベルトさん、座り込んだままのマノンさん、何も聞かなかった年寄りのギさん、そして名前のない赤ん坊。
食事を作るのは、私とクロエだけになった。
正確に言えば、クロエさんは煮炊きをするが、自分では食べない。私が皿を出しても手をつけない。ジャンさんだけが、毎朝、焼き上がりのパンを一つ食べる。焼き加減を見るためだ。
あとの誰も、何も食べなかった。
腹が減らないのだと、みんな同じことを言った。八人が八人ともそう言うので、私はこれが病の後に来るものなのだと結論した。マルグリット婆さんの膝の上の包みは、三日経っても開いたままだった。
村は静かだった。
畑に出る者がいなかった。麦の穂が出ているのに、誰も見に行かない。私が水路の様子を見に行こうと言っても、誰も来なかった。みんな家にいて、じっとしていた。
疲れているのだと私は思った。あれだけの病を越えたのだ。しばらく身体を休めるべきだった。
私は一人で水路を見に行った。直すのに半日かかった。戻ってくると、村は朝と同じままだった。誰も、私が半日いなかったことに気づいていないようだった。
ピエールだけが走り回っていた。
朝から晩まで、村の端から端まで走っている。疲れないのが面白いらしかった。日が暮れても走っていて、私が声をかけると、こう答えた。
「兄ちゃん、俺、眠くならないんだ」
「じゃあ、横になってるだけでもいいよ」
「つまんないよ」
そう言って、また走っていった。
六日目の朝、私は窯の前でジャンさんに聞いた。
「なぜ焼き続けるんですか」
聞いてしまってから、後悔した。この人が黙って続けていることに、理由を求めるべきではなかった。
ジャンさんは炭をならしていた。手を止めなかった。
「あいつが生まれた日にな」
「はい」
「クロエが産んで、俺はここにいた。窯の火は落とせねえからな。産声だけ聞いた」
生地を台に叩きつける音がした。
「それから六年、俺はここで焼いてた。あいつは毎朝、ここへ来た。焼きたての、いちばん柔らけえところを持ってく。俺は追い払う。あいつは笑って持ってく。それが六年だ」
「知っています。よく見ていました」
「もう九日になる」
ジャンさんは言った。
「来ねえんだ」
私は何と言えばいいのかわからなかった。
「病み上がりですから」
「そうだな」
ジャンさんは新しい生地を窯に入れた。
「だから焼いてる。来たときに、無かったら困るだろう」
私はその背中を見ていた。
やさしい人だと思った。娘が食べに来る日のために、毎朝、誰も食べないパンを焼き続けている。そういう父親を持てたリゼットは幸せだと、そのとき私は本気で思った。
アガットさんは礼拝堂から出てこなかった。
一度、様子を見に行ったことがある。戸を開けると、あの人は祭壇の前に座っていた。祈ってはいなかった。手も組まず、頭も下げず、ただ祭壇を見ていた。私が声をかけると、振り向いて、大丈夫だと言った。それだけだった。
ジャンさんだけが、毎朝、窯に火を入れていた。
パンは増え続けていた。台の上に載りきらなくなって、床にも並べるようになった。私は一度だけ、パンを配って回りましょうかと言った。ジャンさんは首を振った。
「置いといてくれ」
その返事も、いつも同じだった。
夜になると、村に灯りはつかなかった。誰も火を入れないからだ。私は森へ帰る道すがら、村を振り返る癖がついた。真っ暗な家々の中で、ジャンさんの窯の火だけが赤く見えた。
その火を見ていると、私は少し安心した。
まだ誰かが起きている、と思えたからだ。
*
十日目の昼だった。
東の道から、馬の足音が聞こえた。
私は井戸のところにいて、赤ん坊を抱いていた。顔を上げると、砂埃が立っているのが見えた。一頭ではない。十頭近くいる。
騎馬だった。
胸当てをつけた男たちが、隊列を組んで村へ入ってきた。王国の紋章が旗についている。この村に兵が来たことなど、私が知るかぎり一度もなかった。
先頭の馬が広場の手前で止まった。
そして、その馬の脇を、歩いてくる者がいた。
荷車を引いていない。ただ歩いてきて、広場の入口で立ち止まった。
トマさんだった。
私は思わず、一歩前に出た。
「トマさん」
トマさんは私を見た。
「帰ってきてくれたんですね」
私は言った。嬉しかった。あの人は十日前、私に近寄るなと言って、荷車を引いて出ていった。何かひどく怒らせてしまったのだと思っていた。それが、戻ってきてくれた。
「トマさん、リゼットは元気です。マルグリットさんも助かりました。ピエールも。みんな、帰ってきたんです」
トマさんは何も言わなかった。
ただ、腕を上げた。
そして、私を指さした。
「あれです!」
トマさんは兵に向かって言った。
「あれが、やってるんです!」




