第3話:よくやったよ
土は柔らかかった。
三日前に掘ったばかりだから、まだ固まっていない。私は膝をついて、両手で掻き出した。鋤を取りに戻る時間が惜しかった。日が沈みかけていて、暗くなる前に済ませたかった。
指先が石に当たった。爪が割れて、血が出た。かまわず掘った。
こんなことをしている自分を、少し不思議に思った。人の墓を掘り返すというのは、たぶん、してはいけないことなのだろう。村の誰かに見られたら止められる。それはわかっていた。
けれど、間に合うかもしれないのだ。
リゼットのときも遅かった。もう息をしていなかった。それでも手を伸ばしたら起きた。だとすれば、三日という時間が何を隔てているのか、私にはわからない。試してみなければわからない。
試さずに帰ったら、私は一生それを考えて生きることになる。あのとき掘っていれば、と思いながら森で年を取っていく。それだけは嫌だった。
掘りながら、私は七日間のことを思い出していた。鍋を三つ並べて火を絶やさないようにしていた夜のことを。どの家へ行ったのかもわからなくなっていた四日目のことを。ジャンさんの窯の前で泣いたことを。
あのとき私は、自分の手には何もできないと思っていた。熱を少し下げることしかできない手だと。
その手が、いま土を掘っている。
爪の間に土が詰まって、痛みが指の付け根まで来ていた。それがむしろありがたかった。痛みがあるということは、まだ動いているということだ。
土の色が変わった。
布が出てきた。麻の粗い布で、村では死んだ人をこれに包む。私は指で土を払って、その形をたどった。小さかった。マルグリット婆さんは腰が曲がって、私より頭ひとつ低い人だった。
布の結び目をほどいた。
顔が出た。
三日ぶりに見る顔だった。目は閉じている。口が少し開いていて、そこにも土が入っていた。私はそれを指で掻き出して、手のひらで頬の土を払った。
冷たかった。
私はしゃがんだまま、しばらくその顔を見ていた。楡の葉が鳴っていた。もう日は落ちていて、あたりは青い色になっていた。
手を伸ばした。
指先が、額に触れた。
起きて。
まぶたが震えた。
*
婆さんは、すぐには何も言わなかった。
目を開けて、まず空を見た。それから、ゆっくりと首を動かして、自分の身体を見た。土の中に腰まで埋まっている。腕を持ち上げて、その手を目の前にかざした。指を一本ずつ動かした。
長いあいだ、そうしていた。
夜になりかけた空は、まだ西の端だけが明るかった。楡の枝が黒く重なって、その隙間から色の残った雲が見えていた。婆さんはその手を、雲の方へ向けて透かすようにした。
村でいちばん長く生きた人だった。八十を越えていると言われていて、正確な年は本人も覚えていない。四十年前の飢饉のことも、その前の戦のことも、この人だけが覚えていた。冬の夜に、子供たちがその話をせがむのを何度も見た。
その人が、いま自分の手を見ている。
私は何も言わずに待っていた。急かしてはいけないと思った。三日も眠っていたのだから、頭がはっきりするまでに時間がかかる。そういうものだと思っていた。
「マルグリットさん」
婆さんは私を見た。
「エリアスかい」
「はい」
「そうかい」
婆さんは自分の手をもう一度見て、それから土を見た。掘り返された穴の縁を、目でたどった。麻布に触れた。結び目のほどけた端をつまんで、指の間で転がした。
私は待っていた。
「わたしゃ」と婆さんは言った。「死んだねえ」
「いいえ」
私は言った。
「助かりました」
婆さんは私を見た。
その顔から、表情というものがしばらく消えていた。何も考えていないのではない。むしろ逆で、あまりに多くのことを一度に考えている顔だった。私はそういう顔を、村の年寄りが人の死を知らされたときに見たことがある。
やがて、婆さんは息を吐くような動きをした。
「そうかい」
そして、笑った。
歯が三本しか残っていない笑い方だった。私は膝の力が抜けそうになった。その笑い方を、私はもう二度と見られないのだと思っていた。
「よかった」と私は言った。「本当に、よかった」
「手を貸しとくれ」
私は両手を差し出した。婆さんは私の腕を掴んで、土の中から出てきた。思ったより軽かった。生きている人を持ち上げたことは何度もあるが、それとは違う軽さだった。三日で痩せたのだろうと思った。あとで何か食べさせなくてはならない。
婆さんは自分の服から土を払った。丁寧に、裾から順に。
「膝は痛みますか」
「痛まないねえ」
「よかった。タイムを持ってきます」
「いらないよ」
婆さんは言った。それから、少し間を置いて、付け足した。
「もう、いらないんだよ」
「治ったんですね」
婆さんは何も言わなかった。
*
村へ戻る道を、私たちはゆっくり歩いた。
婆さんの足取りは、以前より確かだった。杖なしで歩いている。腰も、心なしか伸びているように見えた。病が治ると、こういうこともあるのかもしれない。
「エリアス」
「はい」
「あんた、わたしに何をしたんだい」
「助けました」
「どうやって」
私は答えに詰まった。
「わかりません」と正直に言った。「触って、起きてほしいと思うと、起きるんです。リゼットのときもそうでした」
「リゼットも」
「三日前に。パン屋の」
「知ってるよ」
婆さんは足を止めた。
道の脇に、村の灯りが見えていた。三戸か四戸しか灯りがついていない。いつもならこの時刻、どの家からも煙が上がって、飯の匂いがしているはずだった。
「あの子も、掘ったのかい」
「いえ。リゼットはまだ埋葬される前でした」
「そうかい」
婆さんはまた歩き出した。
しばらく黙って歩いてから、婆さんは言った。
「わたしゃね、エリアス」
「はい」
「もう十分」
そこで、言葉が止まった。
私は待った。婆さんは前を向いたまま歩いている。暗くて、横顔がよく見えなかった。
その沈黙は長かった。
婆さんは歩き続けていた。足音が、私のものより軽い。乾いた土を踏んでいるのに、ほとんど音がしなかった。この人はもともと足を引きずって歩く人だったのに、と私は思った。膝が治ったのだから当然なのだが、その静かさが少しだけ耳に残った。
「もう十分、なんですか」
「……いや」
「疲れましたか。背負いましょうか」
「そうじゃないよ」
婆さんは首を振った。
「なんでもない。年寄りの言うことだ」
「気になります」
「気にしなさんな」
私は納得できなかった。何か言いかけて、やめる。それは、言いたくないのではなく、言えないということだ。私にも覚えがある。森で一人でいた頃、村の人に聞きたいことがたくさんあったのに、聞けなかった。聞いたら、追い出されるかもしれないと思ったからだ。
婆さんは、何を恐れているのだろう。
「マルグリットさん」
「なんだい」
「私に言えないことなら、言わなくていいです」
婆さんの足が、わずかに乱れた。
「でも、もし言えることなら」私は続けた。「私は何でも聞きます。あなたが困っているなら、私は何でもします」
婆さんは立ち止まった。
そして、私の顔を見た。
暗くてよく見えなかったが、その目が私を見ているのはわかった。長いあいだ、婆さんは私を見ていた。何かを量っているような、迷っているような、そういう時間だった。
「エリアス」
「はい」
「あんた、これから何をするつもりだい」
「みんなを助けます」
私は言った。それは考えるまでもないことだった。
「病で死んだ人が、あの墓地にまだ六人います。私はさっき、三日経っていても間に合うことを知りました。だから、全員助けます。誰も死ななくていいんです。もう誰も、あんな思いをしなくていい」
婆さんは何も言わなかった。
「マルグリットさんが助かったんです」と私は言った。
「あなたを助けられたなら、他の人も助けられます」
風が吹いて、麦の穂が鳴った。
婆さんは、私の腕に手を置いた。乾いて、軽い手だった。生きているあいだ、この手はいつも私の袖を引いて、椅子に座らせてくれた。
「よくやったよ」
婆さんは言った。
「あんたは、よくやったよ」
死ぬ前の日にも、この人は同じことを言った。あのとき私は、その言葉に耐えられなかった。何もできていなかったからだ。
けれど今は違う。
私は、この人を助けられた。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。目の奥が熱かった。婆さんの手が、私の腕を二度、軽く叩いた。
*
村に入って、私は足を止めた。
戸が開いていた。
粉屋の戸が開いたままになっていて、中は暗かった。その隣の家も、その隣も。閂がかかっていない。開け放したまま、誰もいない。
「留守みたいですね」
私は言った。
広場に出た。井戸の周りにも誰もいなかった。荷車の轍が、東の道に向かって何本も残っている。昼間トマさんが引いていったのと同じ方向だった。
轍は深かった。荷を積んだ車の跡だ。それが、数えきれないほど並んでいた。
「今日は寄合か何かでしょうか」
婆さんは答えなかった。
私は村を歩いた。
粉屋の家を覗くと、竈に灰が残っていた。触ると、まだ温かかった。鍋も、器も、そのまま棚に並んでいる。持っていく余裕がなかったのだろう。壁にかかっていた粉挽きの前掛けだけが無くなっていた。
その隣の家では、床に木の椀が転がっていた。誰かが踏んだのか、縁が割れている。私はそれを拾って、卓の上に戻した。
戸を閉めて回った。開け放したままでは、夜のうちに獣が入る。犬の姿もなかった。あの雑種は粉屋が連れていったのだろうと思った。
村の南の端まで来て、私は立ち止まった。
灯りがひとつだけついていた。
ジャンさんの家だった。戸を叩くと、リゼットが出てきて、私の手を握った。冷たい手だった。奥でジャンさんが窯の火を落としているのが見えた。クロエさんは壁を向いて座っていた。
五人だった。
この村に残っているのは、私を入れて四人と、いま連れてきた婆さんだけだった。
「みんな、どこへ行ったんでしょうね」
私は言った。
「明日には帰ってくるでしょうか。マルグリットさんが元気になったことを、みんなに知らせたいんです。きっと喜びます」
婆さんは戸口に立って、村の方を見ていた。
暗くて、その顔は見えなかった。




