表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白王と黒王  作者: ブルースライム
序章:ヴィタリス王国 フェリエ村

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/76

第2話:誰も食べないパン

 三日が過ぎた。


 村は静かだった。病が去ったのだから当然だと私は思った。あれだけ夜ごと聞こえていた泣き声が、ひとつも聞こえない。それがどれほどありがたいことか、七日間そこにいた者にしかわからない。


 朝、森を降りて村へ入ると、マルグリット婆さんの座っていた石が空いていた。


 そこを通るたびに、私は少し立ち止まるようになった。あの人はもういない。私が駆けつけたときにはもう息をしていなくて、私は何もできなかった。手を握って、それだけだった。


 広場に人がいなかった。


 畑の時期だからだろうと思った。麦の穂が出るころで、みんな早くから出ているのだ。そう考えて私は納得した。


 犬が一匹、井戸の脇にいた。粉屋の飼っている雑種で、私が来るといつも足元にまとわりついてくる犬だった。


「おいで」


 犬は動かなかった。


 耳を伏せて、身体を低くしている。私が一歩近づくと、後ろへ一歩下がった。もう一歩近づくと、喉の奥で低い音を立てた。


「どうしたの」


 犬は突然、跳ねるように身を翻して走り去った。路地を曲がって、姿が見えなくなった。


 何か嫌なことがあったのだろう。誰かに叩かれたのかもしれない。犬というのは覚えているから、そういうことがあると人間そのものを怖がるようになる。あとで粉屋に聞いてみようと思った。


     *


 パン屋のジャンさんの家の戸を叩くと、リゼットが出てきた。


「エリアス」


「調子はどう」


 リゼットは私の手を握った。それがこの子の挨拶だった。私は握り返して、その手が冷たいことに少し安心した。三日前まで、この子の身体は火のように熱かったのだ。


「入って」


 台所に通されると、テーブルの上に皿が置いてあった。パンが三切れ、そのまま載っている。乾いて、端が反り返っていた。


「食べてないの」


「おなかすかない」


「ちゃんと食べないと、また倒れるよ」


 リゼットは首を振った。


「ほんとうにすかないの」


 私はその皿を見た。病み上がりというのは、そういうものかもしれない。私も熱を出したあとは、しばらく何も食べたくなかった覚えがある。無理に食べさせて吐かせるより、身体が欲しがるまで待つほうがいい。薬草の知識はそう教えていた。


「じゃあ、水は飲んでる?」


 リゼットは答えなかった。私を見上げたまま、じっとしている。


 その目が、なかなか閉じなかった。


 まばたきをしない子だったろうか、と私は思った。よく考えてみると、私はこの子の顔を毎日見ていたわけではない。七日に一度、村に降りたときだけだ。それも、たいていは走ってきて手を握られ、膝に乗せて話をして、日が傾く前に森へ帰る。そのあいだ、この子がどんなふうにまばたきをしていたかなど、覚えているはずがなかった。


 台所は薄暗かった。窓は開いているのに、風が入ってこない。夏の午後で、外は蝉が鳴いているのに、この家の中だけ音が遠かった。


 奥の部屋で、クロエさんが背を向けて座っていた。


 私が入ってきたときから、一度もこちらを向いていない。膝の上で手を組んで、壁のほうを見ている。何かを縫っているわけでも、繕っているわけでもない。ただ座っていた。


「クロエさん」


 返事はなかった。


 疲れているのだろうと思った。七日のあいだ、この人はほとんど眠っていない。娘が助かった安心で、いま一気に来ているのだ。私はそっと戸口へ下がった。


「森の話して」


「今日はやめておこう。まだ本調子じゃないだろうから」


「へいき」


「じゃあ、少しだけ」


 私は椅子に座って、この前と同じ話をした。鹿を見た。栗が落ちていた。雨の日に、雨の音だけを一日聞いていた。リゼットは膝の上で、初めて聞くような顔で聞いた。


 前と何も変わらなかった。


 そのことが、私にはただ嬉しかった。


     *


 窯の前で、ジャンさんがパンを焼いていた。


 朝から十二個焼いたと言った。台の上に並んでいる。私が来たとき、ちょうど新しいのを窯から出したところだった。


「ずいぶん焼くんですね」


「毎日焼いてる」


「売れてますか」


 ジャンさんは答えなかった。


 火かき棒で炭を寄せて、灰をならして、また新しい生地を並べた。手つきに迷いがない。二十年これをやってきた人の手だった。


 台の上のパンは、十二個とも手つかずだった。前の日の分らしいものが、その奥にも積んである。数えると三十を超えていた。いちばん下の段のものは表面が白く粉を吹いて、指で押せば崩れそうだった。奥の一つに蝿がたかっていて、私は手で払った。蝿は少し離れて、すぐにまた同じ場所へ戻った。


 このごろ蝿が多い、と私は思った。夏だからだろう。井戸の周りにも、家の軒先にも、以前より目につく。あとで薬草を焚いて追い払ってやろうと思った。


「ジャンさん」


「なんだ」


「昨日の分も残ってますよ」


「そうだな」


「捨てましょうか。もったいないけど、傷むと悪くなるから」


「置いといてくれ」


 私はそれ以上言えなかった。


 窯の火は強かった。夏の昼に、この火の前に立ち続けるのは辛いはずだ。ジャンの額から汗が落ちて、灰の上で小さな音を立てて消えた。


 ジャンさんは焼き上がったばかりのパンを一つ割って、その端を口に入れた。焼き加減を見るために、この人は必ず一つ食べる。二十年、毎朝そうしてきたのだと前に聞いた。


 私はそれを見ながら、少し安心した。この人はちゃんと食べている。七日のあいだ、ろくに眠りも食べもしなかった人だ。娘が助かって、ようやく食欲が戻ったのだろう。


 リゼットにも、早くそうなってほしかった。


「リゼットが、食べないんです」


 私がそう言うと、ジャンさんの手が止まった。


 止まったまま、しばらく動かなかった。私は何かまずいことを言ったのかと思って、言い直そうとした。


「あの子は昔から少食で」


「知ってる」


 ジャンさんは言った。


「俺の娘だ」


 それだけ言って、また生地を並べ始めた。私は少し待ってから、頭を下げて窯を離れた。


 歩きながら、私は自分の言葉を悔いていた。父親に向かって、娘のことを教えるようなことを言ってしまった。あの人は七日間、あの子の枕元にいたのだ。私よりずっと多くを知っている。


 もっと考えてから話すべきだった。


     *


 村の東の外れで、トマさんが荷車に荷物を積んでいた。


 鍛冶屋のトマさんは、村でいちばん力持ちだった。鉄を打つ音は毎朝聞こえていて、村の朝はあの音で始まると言われていた。


 その音を、私は三日聞いていない。


 荷車には鍛冶の道具が積まれていた。金床、鎚、鞴。それに衣類の包みと、わずかな食料。奥さんと、まだ歩けない子供が荷車の脇に立っていた。


「どこか行かれるんですか」


 トマさんが振り返った。


 そして、後ずさった。


 荷車の輪に踵がぶつかって、大きな音が立った。妻が子供を抱き上げて、荷車の反対側に回った。


「近寄るな」


「え」


「近寄るなと言ってる」


 私は足を止めた。何が起きているのかわからなかった。


「トマさん、私は」


「来るな!」


 その声は、村の端まで届くほどの大きさだった。私は言葉を失って、立ち尽くした。


 トマさんの手が震えていた。鉄を打つ手が、震えていた。


「お前は」トマさんは言った。「お前は、何をした」


「何を、というのは」


「リゼットだ」


「助けました」


「助けた」


 トマさんは私の言葉を繰り返した。喉の奥から絞り出すような声だった。


「あの子は死んでたんだ。俺は見た。三日前の朝、あの子は死んでたんだよ。息もしてなかった。冷たくなってた。クロエが泣いてるのを俺は聞いてた」


「だから、助けたんです」


「死んだ人間は助からねえんだ」


「助かりました」私は言った。「リゼットは今、家にいます。私と話をしました。笑ってくれました」


 トマさんは私を見た。


 長いあいだ、何も言わなかった。その顔から、少しずつ何かが抜けていった。怒りが抜けて、あとに残ったものを、私はうまく言い表せない。あんな顔を見たのは初めてだった。


「お前、本当にわかってねえのか」


「何をですか」


 トマさんは荷車の柄を掴んだ。


「行くぞ」


 奥さんが子供を抱いて歩き出した。トマさんが荷車を引いた。私はその後ろ姿に向かって声をかけた。


「どこへ行くんですか」


 返事はなかった。


「トマさん。村を出るんですか」


 車輪が石を踏む音だけが遠ざかっていった。私は道の真ん中に立って、それが見えなくなるまで見ていた。


 なぜ怖がられたのか、私にはわからなかった。


 私は誰も傷つけていない。誰からも何も奪っていない。死にかけた子供を助けただけだ。それが、あの人に何をしたというのだろう。


 わからないまま、私は村へ戻った。


     *


 その日の夕方、私は村の裏の墓地へ行った。


 理由はうまく説明できない。トマさんの言葉が頭から離れなかったからかもしれない。死んだ人間は助からない、と彼は言った。けれど私は助けた。だとすれば、彼が間違っているか、私が何かを取り違えているかのどちらかだ。


 墓地は村の外れの、楡の木の下にあった。


 新しい土が七つ並んでいた。この七日で死んだ人たちだ。誰の名も刻まれていない。木の板が一枚ずつ立ててあるだけで、村にはそれ以上のことをする余裕がなかった。


 いちばん端に、六日目の土があった。


 マルグリット婆さんの墓だった。


 私はその前にしゃがんだ。土はまだ柔らかく、雨が降っていないので表面が乾いて白くなっていた。


 村の入口に座って、毎朝、私が来るのを見つけてくれた人だった。歯が三本しか残っていない笑い方をする人だった。膝が痛むと言うから、私は七日に一度タイムを持っていった。それだけの付き合いだったが、私にとってはそれが世界のほとんどだった。


 あの人は私を追い出さなかった。森から来た素性の知れない子供に、椅子を出してくれた。名前を呼んでくれた。誰かに名前を呼ばれるということが、私にとって何を意味するのか、あの人は知らなかったと思う。知らないまま、毎朝それをしてくれた。


 死ぬ前の日に、私はあの人の家で薬を煎じた。もう飲み下す力がなかった。それでも婆さんは私の手を叩いて、こう言った。あんたはよくやったよ、と。


 よくやってなどいなかった。私は誰も助けられなかった。


 駆けつけたときにはもう遅くて、手を握ることしかできなかった。冷たくなっていく手を、ただ握っていた。


 けれど。


 リゼットのときも、遅かったはずだ。


 あの子はもう息をしていなかった。冷たくなっていた。それでも、私が手を伸ばしたら起きた。目を開けて、私の名を呼んで、笑ってくれた。


 だとしたら。


 私は土を見た。


 まだ間に合うのではないか。


 夕日が楡の葉の隙間から落ちて、土の上に細かい模様を作っていた。風が出てきて、葉が鳴った。遠くで、誰かの家の戸が閉まる音がした。


 私は膝をついた。


 そして、土に手を伸ばした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ