第2話:誰も食べないパン
三日が過ぎた。
村は静かだった。病が去ったのだから当然だと私は思った。あれだけ夜ごと聞こえていた泣き声が、ひとつも聞こえない。それがどれほどありがたいことか、七日間そこにいた者にしかわからない。
朝、森を降りて村へ入ると、マルグリット婆さんの座っていた石が空いていた。
そこを通るたびに、私は少し立ち止まるようになった。あの人はもういない。私が駆けつけたときにはもう息をしていなくて、私は何もできなかった。手を握って、それだけだった。
広場に人がいなかった。
畑の時期だからだろうと思った。麦の穂が出るころで、みんな早くから出ているのだ。そう考えて私は納得した。
犬が一匹、井戸の脇にいた。粉屋の飼っている雑種で、私が来るといつも足元にまとわりついてくる犬だった。
「おいで」
犬は動かなかった。
耳を伏せて、身体を低くしている。私が一歩近づくと、後ろへ一歩下がった。もう一歩近づくと、喉の奥で低い音を立てた。
「どうしたの」
犬は突然、跳ねるように身を翻して走り去った。路地を曲がって、姿が見えなくなった。
何か嫌なことがあったのだろう。誰かに叩かれたのかもしれない。犬というのは覚えているから、そういうことがあると人間そのものを怖がるようになる。あとで粉屋に聞いてみようと思った。
*
パン屋のジャンさんの家の戸を叩くと、リゼットが出てきた。
「エリアス」
「調子はどう」
リゼットは私の手を握った。それがこの子の挨拶だった。私は握り返して、その手が冷たいことに少し安心した。三日前まで、この子の身体は火のように熱かったのだ。
「入って」
台所に通されると、テーブルの上に皿が置いてあった。パンが三切れ、そのまま載っている。乾いて、端が反り返っていた。
「食べてないの」
「おなかすかない」
「ちゃんと食べないと、また倒れるよ」
リゼットは首を振った。
「ほんとうにすかないの」
私はその皿を見た。病み上がりというのは、そういうものかもしれない。私も熱を出したあとは、しばらく何も食べたくなかった覚えがある。無理に食べさせて吐かせるより、身体が欲しがるまで待つほうがいい。薬草の知識はそう教えていた。
「じゃあ、水は飲んでる?」
リゼットは答えなかった。私を見上げたまま、じっとしている。
その目が、なかなか閉じなかった。
まばたきをしない子だったろうか、と私は思った。よく考えてみると、私はこの子の顔を毎日見ていたわけではない。七日に一度、村に降りたときだけだ。それも、たいていは走ってきて手を握られ、膝に乗せて話をして、日が傾く前に森へ帰る。そのあいだ、この子がどんなふうにまばたきをしていたかなど、覚えているはずがなかった。
台所は薄暗かった。窓は開いているのに、風が入ってこない。夏の午後で、外は蝉が鳴いているのに、この家の中だけ音が遠かった。
奥の部屋で、クロエさんが背を向けて座っていた。
私が入ってきたときから、一度もこちらを向いていない。膝の上で手を組んで、壁のほうを見ている。何かを縫っているわけでも、繕っているわけでもない。ただ座っていた。
「クロエさん」
返事はなかった。
疲れているのだろうと思った。七日のあいだ、この人はほとんど眠っていない。娘が助かった安心で、いま一気に来ているのだ。私はそっと戸口へ下がった。
「森の話して」
「今日はやめておこう。まだ本調子じゃないだろうから」
「へいき」
「じゃあ、少しだけ」
私は椅子に座って、この前と同じ話をした。鹿を見た。栗が落ちていた。雨の日に、雨の音だけを一日聞いていた。リゼットは膝の上で、初めて聞くような顔で聞いた。
前と何も変わらなかった。
そのことが、私にはただ嬉しかった。
*
窯の前で、ジャンさんがパンを焼いていた。
朝から十二個焼いたと言った。台の上に並んでいる。私が来たとき、ちょうど新しいのを窯から出したところだった。
「ずいぶん焼くんですね」
「毎日焼いてる」
「売れてますか」
ジャンさんは答えなかった。
火かき棒で炭を寄せて、灰をならして、また新しい生地を並べた。手つきに迷いがない。二十年これをやってきた人の手だった。
台の上のパンは、十二個とも手つかずだった。前の日の分らしいものが、その奥にも積んである。数えると三十を超えていた。いちばん下の段のものは表面が白く粉を吹いて、指で押せば崩れそうだった。奥の一つに蝿がたかっていて、私は手で払った。蝿は少し離れて、すぐにまた同じ場所へ戻った。
このごろ蝿が多い、と私は思った。夏だからだろう。井戸の周りにも、家の軒先にも、以前より目につく。あとで薬草を焚いて追い払ってやろうと思った。
「ジャンさん」
「なんだ」
「昨日の分も残ってますよ」
「そうだな」
「捨てましょうか。もったいないけど、傷むと悪くなるから」
「置いといてくれ」
私はそれ以上言えなかった。
窯の火は強かった。夏の昼に、この火の前に立ち続けるのは辛いはずだ。ジャンの額から汗が落ちて、灰の上で小さな音を立てて消えた。
ジャンさんは焼き上がったばかりのパンを一つ割って、その端を口に入れた。焼き加減を見るために、この人は必ず一つ食べる。二十年、毎朝そうしてきたのだと前に聞いた。
私はそれを見ながら、少し安心した。この人はちゃんと食べている。七日のあいだ、ろくに眠りも食べもしなかった人だ。娘が助かって、ようやく食欲が戻ったのだろう。
リゼットにも、早くそうなってほしかった。
「リゼットが、食べないんです」
私がそう言うと、ジャンさんの手が止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。私は何かまずいことを言ったのかと思って、言い直そうとした。
「あの子は昔から少食で」
「知ってる」
ジャンさんは言った。
「俺の娘だ」
それだけ言って、また生地を並べ始めた。私は少し待ってから、頭を下げて窯を離れた。
歩きながら、私は自分の言葉を悔いていた。父親に向かって、娘のことを教えるようなことを言ってしまった。あの人は七日間、あの子の枕元にいたのだ。私よりずっと多くを知っている。
もっと考えてから話すべきだった。
*
村の東の外れで、トマさんが荷車に荷物を積んでいた。
鍛冶屋のトマさんは、村でいちばん力持ちだった。鉄を打つ音は毎朝聞こえていて、村の朝はあの音で始まると言われていた。
その音を、私は三日聞いていない。
荷車には鍛冶の道具が積まれていた。金床、鎚、鞴。それに衣類の包みと、わずかな食料。奥さんと、まだ歩けない子供が荷車の脇に立っていた。
「どこか行かれるんですか」
トマさんが振り返った。
そして、後ずさった。
荷車の輪に踵がぶつかって、大きな音が立った。妻が子供を抱き上げて、荷車の反対側に回った。
「近寄るな」
「え」
「近寄るなと言ってる」
私は足を止めた。何が起きているのかわからなかった。
「トマさん、私は」
「来るな!」
その声は、村の端まで届くほどの大きさだった。私は言葉を失って、立ち尽くした。
トマさんの手が震えていた。鉄を打つ手が、震えていた。
「お前は」トマさんは言った。「お前は、何をした」
「何を、というのは」
「リゼットだ」
「助けました」
「助けた」
トマさんは私の言葉を繰り返した。喉の奥から絞り出すような声だった。
「あの子は死んでたんだ。俺は見た。三日前の朝、あの子は死んでたんだよ。息もしてなかった。冷たくなってた。クロエが泣いてるのを俺は聞いてた」
「だから、助けたんです」
「死んだ人間は助からねえんだ」
「助かりました」私は言った。「リゼットは今、家にいます。私と話をしました。笑ってくれました」
トマさんは私を見た。
長いあいだ、何も言わなかった。その顔から、少しずつ何かが抜けていった。怒りが抜けて、あとに残ったものを、私はうまく言い表せない。あんな顔を見たのは初めてだった。
「お前、本当にわかってねえのか」
「何をですか」
トマさんは荷車の柄を掴んだ。
「行くぞ」
奥さんが子供を抱いて歩き出した。トマさんが荷車を引いた。私はその後ろ姿に向かって声をかけた。
「どこへ行くんですか」
返事はなかった。
「トマさん。村を出るんですか」
車輪が石を踏む音だけが遠ざかっていった。私は道の真ん中に立って、それが見えなくなるまで見ていた。
なぜ怖がられたのか、私にはわからなかった。
私は誰も傷つけていない。誰からも何も奪っていない。死にかけた子供を助けただけだ。それが、あの人に何をしたというのだろう。
わからないまま、私は村へ戻った。
*
その日の夕方、私は村の裏の墓地へ行った。
理由はうまく説明できない。トマさんの言葉が頭から離れなかったからかもしれない。死んだ人間は助からない、と彼は言った。けれど私は助けた。だとすれば、彼が間違っているか、私が何かを取り違えているかのどちらかだ。
墓地は村の外れの、楡の木の下にあった。
新しい土が七つ並んでいた。この七日で死んだ人たちだ。誰の名も刻まれていない。木の板が一枚ずつ立ててあるだけで、村にはそれ以上のことをする余裕がなかった。
いちばん端に、六日目の土があった。
マルグリット婆さんの墓だった。
私はその前にしゃがんだ。土はまだ柔らかく、雨が降っていないので表面が乾いて白くなっていた。
村の入口に座って、毎朝、私が来るのを見つけてくれた人だった。歯が三本しか残っていない笑い方をする人だった。膝が痛むと言うから、私は七日に一度タイムを持っていった。それだけの付き合いだったが、私にとってはそれが世界のほとんどだった。
あの人は私を追い出さなかった。森から来た素性の知れない子供に、椅子を出してくれた。名前を呼んでくれた。誰かに名前を呼ばれるということが、私にとって何を意味するのか、あの人は知らなかったと思う。知らないまま、毎朝それをしてくれた。
死ぬ前の日に、私はあの人の家で薬を煎じた。もう飲み下す力がなかった。それでも婆さんは私の手を叩いて、こう言った。あんたはよくやったよ、と。
よくやってなどいなかった。私は誰も助けられなかった。
駆けつけたときにはもう遅くて、手を握ることしかできなかった。冷たくなっていく手を、ただ握っていた。
けれど。
リゼットのときも、遅かったはずだ。
あの子はもう息をしていなかった。冷たくなっていた。それでも、私が手を伸ばしたら起きた。目を開けて、私の名を呼んで、笑ってくれた。
だとしたら。
私は土を見た。
まだ間に合うのではないか。
夕日が楡の葉の隙間から落ちて、土の上に細かい模様を作っていた。風が出てきて、葉が鳴った。遠くで、誰かの家の戸が閉まる音がした。
私は膝をついた。
そして、土に手を伸ばした。




