第1話:みんな、笑ってくれた
*エリアスのイメージイラストを後書きに追加しました。
玉座の間に、千を超える民が集まっていた。
私はその中央を歩いた。両側に人垣ができ、みなが頭を垂れる。深く、丁寧に、示し合わせたように同じ角度で。私はひとりひとりの顔を見ようとしたのだが、誰もが伏せているので、頭のつむじばかりが並んで見えた。
咳払いの音ひとつ聞こえなかった。
千人が集まって、これほど静かなことがあるのかと思った。私が村にいた頃は、収穫祭に五十人も集まれば、誰かが必ず笑い、誰かが必ず子供を叱っていた。ここにはそれがない。深い敬意というものはこういう形をしているのだと、私はそのとき知った。
玉座の脇に、白髪の老人が控えていた。
アンリ七世。この国を四十年治めた王で、私が来るまではこの椅子に座っていた人でもある。
「陛下」
老人は膝を折った。六十五の身体には辛いはずだが、動きに淀みがなかった。私は慌てて手を伸ばした。
「やめてください。あなたに膝をつかれる理由が、私にはありません」
「理由ならば、この国の民すべてが存じております」
老人は顔を上げた。眼窩が深く落ちくぼんでいる。この数か月で、またずいぶん痩せられたな、と思った。私がうまくやれていないせいだと思うと、胸が痛んだ。もっと食べていただかなくてはならない。厨房に頼んで、明日から量を増やしてもらおう。
「エリアス陛下。どうか、お座りください」
私は玉座に座った。
冷たかった。石でできているのだから当然なのだが、何度座っても慣れない。座面の冷たさが背中まで上がってきて、私はいつものように背筋を伸ばした。高い窓から光が差し込み、床の敷石に長い四角を落としている。その光の帯を、民は誰も踏まなかった。みな、影の側に寄って立っていた。
日差しが強いのだろうと思った。十月のはじめだった。
「白王陛下、万歳」
前列の誰かが言った。
すると、千の声が続いた。ひとつも重ならず、ひとつも遅れず、同じ高さの声が唱和した。私はその音を聞きながら、目の奥が熱くなるのを感じていた。
みんな、幸せそうだった。
私は生まれてからずっと、これを望んでいた。誰も飢えず、誰も泣かず、誰も誰かを傷つけない国。それがいま、目の前にある。私の手で、と言うのはおこがましい。私はただ、みんなを助けたかっただけだ。
これは、私が国王になるまでの話である。
私が十六になった年の、夏のはじめのことだった。
*
森の奥に、私の家があった。
家というほどのものではない。倒れた大木の根元に石を積み、屋根の代わりに枝と苔を載せただけのものだ。それでも雨は防げたし、冬も凍えずに済んだ。
いつからそこに住んでいたのか、私は知らない。物心ついたときにはそこにいて、両親の顔も名前も覚えていない。エリアス、という名だけが自分の中にあった。誰かに呼ばれた記憶があるから、たぶん誰かが付けてくれたのだと思う。
森は静かで、優しかった。
朝、目を覚ますとまず外に出て、挨拶をする。木にも、草にも、石にも。そういう習慣がいつ身についたのかも覚えていない。返事があるわけではないが、返事がなくても構わなかった。挨拶というのは、返ってくるかどうかとは関係のないものだ。
森を抜けて半刻ほど歩くと、フェリエ村がある。
三十戸ほどの小さな村だ。私はそこへ、七日に一度ほど降りていった。薬草を採って持っていくと、村の人たちがパンや塩と交換してくれる。私は文字が読めないが、どの葉が熱に効いてどの根が腹に効くかは知っていた。これも、誰に教わったのか覚えていない。
*
「エリアス、また来たのかい」
村の入口で最初に会うのは、たいていマルグリット婆さんだった。腰が曲がって杖なしでは歩けないのに、毎朝この場所に座って村の出入りを見ている。
「タイムを採ってきました。膝に貼るといいと思って」
「あんたはいつもそれだ。自分の食い物より、人の膝の心配かい」
「私は森にいれば食べるものがありますから」
婆さんは笑った。歯が三本しか残っていない笑い方で、私はその笑い方が好きだった。
広場に着くと、パン屋のジャンさんが窯の前で汗を拭いていた。私を見ると、焼きたてを一つ割って、端の方を差し出してくれる。
「取っといたぞ。硬いところが好きなんだろ」
「ありがとうございます」
「変わった子だよ、お前は。うちの娘は柔らかいところしか食わん」
その娘が、奥から走ってきた。
リゼット。六つになったばかりで、いつも粉だらけの前掛けをしている。走ってきて、何も言わずに私の手を握った。それがこの子の挨拶だった。手が小さくて、いつも粉の匂いがした。
「エリアス、森の話して」
「この前と同じ話でもいいの」
「いい」
私は井戸の縁に座って、リゼットを膝に乗せた。話すことなど大してない。鹿を見た。栗が落ちていた。雨の日に、雨の音だけを一日聞いていた。それだけの話を、この子は毎回、初めて聞くような顔で聞いた。
「あたしも森に行きたい」
「危ないよ」
「エリアスは行ってるじゃない」
「私は慣れているから」
リゼットは膨れて、私の袖を引っ張った。それから思い出したように顔を上げた。
「じゃあ、おっきくなったら連れてって」
「いいよ」と私は言った。「大きくなったらね」
その約束を、私は守れなかった。
*
その夏、村に病が入った。
熱が出て、三日ほどで下がる病だった。大人はそれで済んだ。子供と老人は済まなかった。
私は森中を歩いて薬草を集めた。三日三晩、眠らずに煎じ続けた。鍋を三つ並べて、火を絶やさないようにした。それでも足りなかった。足りるはずがなかった。私が知っているのは熱を下げる草であって、病を消す草ではない。そんなものは森のどこにもなかった。
四日目には、自分がどの家に行ったのかも思い出せなくなっていた。煎じた汁を運び、額を冷やし、次の家へ行く。その繰り返しの中で、私は何度も同じことを考えた。もっと早く気づいていれば。もっと薬草を蓄えていれば。もっと私に何かができたなら。
けれど私にできるのは、熱を少し下げることだけだった。
五日目の夜、ジャンさんの家の窯の前で、私は初めて泣いた。パンを焼く火だけが村で唯一まだ生きているもののように見えて、それがなぜだか耐えられなかった。ジャンさんは何も言わずに、私の隣で火を見ていた。
六日目に、マルグリット婆さんが助からないと聞いた。私が駆けつけたときには、もう息をしていなかった。私はその手を握って、しばらく動けずにいた。いつも村の入口に座って、私が来るのを見つけてくれた人だった。その人がもう、私を見つけてくれない。
このとき私は、何もしなかった。何かができるということを、まだ知らなかったからだ。
七日目の朝に、リゼットが死んだ。
私が家に駆けつけたとき、その子はもう寝台の上で目を閉じていた。ジャンさんが床に膝をついていた。妻のクロエさんは声も出せずに、娘の手を握っていた。
私は寝台の脇に立った。
リゼットの顔は白かった。眠っているのと変わらないように見えた。眠っているのと、どこが違うのだろうと私は思った。息をしていないだけだ。胸が動いていないだけだ。それは、直せることのように思えた。
私は手を伸ばした。
このとき自分が何をしたのか、正確なところは私にも説明ができない。祈ったわけでも、呪文を唱えたわけでもない。ただ、この子には起きてほしいと思った。それだけだ。
指先が、リゼットの額に触れた。
起きて。
リゼットの睫毛が動いた。
小さな胸が、ひとつ持ち上がった。それから、ゆっくりと目が開いた。
「リゼット」
私が呼ぶと、リゼットは私の方を向いた。そして、起き上がった。
私は思わずその手を取った。冷たかった。ずっと高い熱に苦しんでいたのだから、下がったのだろうと思った。よかった、と私は言った。もう熱くない。
クロエさんが悲鳴を上げた。
私は驚いて振り返った。母親というのは、娘が生き返れば喜ぶものだと思っていた。けれどクロエさんは寝台から離れ、壁まで下がって、両手で口を押さえていた。ジャンさんは膝をついたまま動かなかった。
私にはわけがわからなかった。
「よかった」と私は言った。「間に合いました」
袖を引かれて、振り向いた。リゼットが私を見上げていた。
そして、笑った。
私が知っているとおりの笑い方だった。目を細めて、口の端を持ち上げて、少しだけ首を傾げる。何ひとつ変わっていなかった。
「エリアス」
リゼットが私の名を呼んだ。
私は膝をついて、その小さな身体を抱きしめた。粉の匂いがした。前と同じだった。何も失われていなかった。
戸口に、村の人たちが集まってきていた。
いつのまにか、二十人ほどが家の前に立っていた。誰も入ってこなかった。誰も何も言わなかった。ただ、そこに立って、こちらを見ていた。
私は顔を上げて、その人垣を見渡した。
七日のあいだ、この村は泣き声で満ちていた。夜になると、どこかの家から必ず声が聞こえた。私はそれを聞きながら、何もできない自分の手を見ていた。
いま、泣き声は聞こえない。
一人ずつ、顔を確かめた。パン屋のジャンさん。二日前に妻を亡くしたばかりの粉屋のロベールさん。鍛冶屋のトマさん。私が薬草を届けて回った家の人たちが、そこに揃っていた。みんな、口を開けたまま、目を見開いて、こちらを見ていた。
長いあいだ、誰も動かなかった。やがてトマさんが一歩下がり、それから背を向けて走り出した。何人かが後を追った。
急ぎの用があったのだろうと私は思った。
残った人たちは、そこから動かなかった。クロエさんは壁に背を預けたまま、まだ両手で口を押さえている。私はその指の隙間から漏れる音を聞いた。笑っているのだと思った。ずっと娘のために泣いていた人が、やっと別の声を出したのだと。
リゼットが私の膝の上で、もう一度、私の名を呼んだ。
そして、思った。
みんな、笑ってくれた。




