第36話:助けましょう
次の朝、ギヨームさんは私を塔の上へ連れていった。
板の卓に地図が広げてあった。
私は字が読めないが、線と色は分かる。太い線が川で、細かい線が道だ。城のもそうだった。
「ここが砦だ」
ギヨームさんが指を置いた。
「ここが境」
指が少し右へ動いた。ほとんど同じところだった。
「近いですね」
「近い」
ギヨームさんは言った。
「近すぎる」
*
「境というのは、線ではない」
ギヨームさんは地図の上に手のひらを置いた。指の先から手首までを、ゆっくり動かした。
「向こうが攻めてくるとする。まずここで当たる」
指が砦を叩いた。
「押されれば退がる。退がった先はどこだ」
私は地図を見た。砦の左側に、小さな印がいくつも並んでいた。
「これは」
「村だ」
ギヨームさんは言った。
「十一ある。二千三百人ほど住んでおる」
*
「押されれば、そこが戦場になる」
私はその意味を考えた。
村が戦場になるというのが、どういうことなのかは知っている。見た。
麦が燃えた。窯が壊れた。井戸に何かが投げ込まれた。そういうことだ。
「二十年、そうしてきた」
ギヨームさんは指を左へ滑らせた。
「三度、境が動いた。動くたびに、この辺りの村が焼けた。焼けてから、こちらが押し返す。押し返したところで、焼けた村は戻らん」
「戻りませんね」
「戻らん」
*
「では、どうすればよいか」
ギヨームさんは、こんどは指を右へ動かした。境の線を越えて、その先で止めた。
「向こう側で受ける」
「向こう側」
「境から東へ、馬で一日ほどの帯を取る。そこを空にしておく。敵が来れば、まずそこで当たる」
私は地図を見ていた。
「そうすると、どうなりますか」
「押されても、退がる先が野原だ」
ギヨームさんは言った。
「村が焼けん」
*
私は少しのあいだ黙っていた。
言っていることは、分かった。
村では、家の周りの草を刈った。火が出たときに燃え移らないようにするためだ。何もない場所を作っておけば、火はそこで止まる。婆さんが毎年うるさく言っていた。
同じことだと思った。
「それは、いいことですね」
「そう思うか」
「はい」
私は言った。
「村が焼けないなら、そのほうがいいです」
ギヨームさんは、私を見ていた。
*
「一つ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「その帯のところに、人は住んでいますか」
ギヨームさんの指が、地図の上で止まった。
「住んでおる」
「何人ですか」
「千二百ほど」
私はその数に覚えがあった。
ヴァレリーさんが言っていた。十二年前の戦で境が動いて、向こうの管区に入った五つの村。ヴィタリスの民で、いまは向こうに税を納めている。去年は徴兵で八十人が出て、四十人が帰らなかった。
あの村だ。
*
「あの人たちは、どうなりますか」
「動かす」
「動かす?」
「西へだ」
ギヨームさんは地図の上で指を滑らせた。境を越えて、こちら側へ。
「土地を用意する。家も建てる。麦は倉に余っておる。連れてくるだけなら、金はかからん」
私は身を乗り出した。
「連れてこられるんですか」
「向こうが手放せばな」
「手放さなかったら」
「そのときは、また考える」
*
私は嬉しくなった。
ヴァレリーさんの話は、あれきり止まっていた。使者は焼かれ、手紙も届かず、私は何もできなかった。中庭で一日かけて試して、膝が擦り剥けただけだった。
あれからずっと、あの千二百人のことが胸に引っかかっていた。
息子を四十人取られた母親がいる。私は名前も顔も知らない。それでも、泣いたことは間違いないと思っていた。
「助けましょう」
私は言った。
「その人たちを、こちらへ連れてきましょう」
*
ギヨームさんは、しばらく私を見ていた。
それから、ゆっくりと頭を下げた。
「承知」
「よかった」
私は言った。
「アンリさんにも話します。土地のことは、あの人が詳しいので」
「そうしてくれ」
「ヴァレリーさんも喜びます。ずっと気にしていましたから」
ギヨームさんは、そこで少しだけ笑ったように見えた。
私はその笑いの意味を、聞かなかった。
*
「陛下」
ギヨームさんが言った。
この人が私をそう呼ぶのを、初めて聞いた気がした。いつもは小僧か、お前だった。
「はい」
「一つだけ、確かめておきたい」
「なんでしょう」
「あなたは、民を守りたいのだな」
それは、考えるまでもないことだった。
「はい」
「ならば十分だ」
ギヨームさんは地図を巻いた。
*
同じことを、前にも聞かれた。
初めて会った日だ。丘の下で、この人は片膝をついて、同じことを聞いた。あのときも私は、はい、と答えた。
なぜ二度聞くのだろう、と思った。
一度答えたことを、この人は忘れていないはずだ。数のことも、地形のことも、二十年前の戦の日付まで覚えている人だ。
覚えていて、もう一度聞いた。
*
塔を下りるとき、下の中庭から音が聞こえてきた。
朝の稽古が始まっていた。
鉄が当たる音と、骨が鳴る音と、その合間に何も聞こえない時間があった。誰も声を上げないからだ。
私は途中で足を止めて、しばらくそれを聞いていた。
「行かんのか」
ギヨームさんが先で振り返った。
「行きます」
私は階を下りた。
*
下の口に、ロランさんが立っていた。
「ロランさん」
「はい」
「人を、別の土地へ移したことはありますか」
「ございます」
答えが早かった。
「大変ですか」
「退きたがらぬ者が出ます。必ず」
「そうでしょうね」
私は言った。
「家がありますから」
ロランさんは何も言わなかった。
「そういうときは、どうするんですか」
少し間があった。
「説きます」
「それで聞いてくれますか」
「たいていは」
たいてい、というのは、そうでないときがあるということだ。
私はそれを聞かなかった。
急いでいたわけではない。ただ、聞かなくてもいいことのような気がした。
*
布のことを、まだ言っていなかったと気づいたのは、王都へ戻る道の途中だった。




