第35話:稽古
十月に入って、ギヨームさんから使いが来た。
国境の砦を見にきてほしい、という話だった。
「行ったほうがいいですか」
私が聞くと、アンリさんは書類から目を上げた。
「陛下がお決めになることです」
「アンリさんはどう思いますか」
「兵は、王に見られたがるものにございます」
それだけ言って、また目を落とした。
私は行くことにした。見られたいのなら、見にいくのが筋だ。村でも、新しくした屋根は必ず誰かが見にこいと言った。
*
馬で四日の道のりだった。
ロランさんが供についた。ほかに二十人ほど。私が少なくていいと言ったので、これでも減らしたのだという。
馬に乗るのは、まだ得意ではない。城に来てから習った。手綱の持ち方は覚えたが、身体が固くなる。
二日目の昼に、ロランさんが聞いた。
「お休みになりますか」
「大丈夫です」
「尻がお痛みでしょう」
「痛くありません」
言ってから、私は少し考えた。
本当に痛くなかった。
*
村では、馬に乗ったことがなかった。
荷馬の背に一度だけ乗せてもらったことがある。半刻ほどで、次の日は座れなかった。ジャンさんに笑われた。慣れんうちはそんなもんだ、と言われた。
いまは四日目の朝で、私は普通に馬から降りて、普通に歩いている。
刈り入れのときとは違う。
あのときは三十ほど刈って腰が痛くなり、二百で鎌が重くなり、日が暮れる頃には立っているのが辛かった。手のひらの皮が剥けて、三日経っても塞がらなかった。
あれから、ひと月半ほどになる。
「ロランさん」
「はい」
「私、丈夫になったでしょうか」
「そのように見受けます」
「よかった」
私は言った。
「王の仕事に、慣れたんだと思います」
毎日、朝から晩まで印を押している。歩き回っている。階を何度も上り下りしている。それを二ヶ月も続ければ、身体もそうなるのだろう。
村の子も、畑に出るようになると急に足が強くなる。そういうものだ。
ロランさんは何も言わなかった。
*
砦は、丘の背に沿って建っていた。
石を積んだ壁が、地面の起伏どおりに折れながら続いている。長さは村の端から端までの三倍ほどあった。
旗が立っていた。数えると十四本。
門の前に、ギヨームさんが立っていた。
「来たか」
「はい」
「見せるものがある」
*
中に入って、まず音に気づいた。
打ち合う音がしていた。
木の音ではない。鉄と鉄が当たる音だ。それが途切れずに、あちこちから聞こえてくる。
中庭に出た。
兵が組み合っていた。
二人一組で、五十組ほど。剣を持っている者、槍を持っている者、素手の者もいた。
私は足を止めた。
本気で打ち合っていた。
村でも、若い者が取っ組み合うのは見たことがある。あれは加減をする。当たる直前で力を抜くし、相手が倒れたら手を止める。
ここでは、止めなかった。
*
目の前で、一人が肩を打たれた。
音がした。骨が鳴る音だと分かった。打たれた者は膝をついた。
打った者が、もう一度振り下ろした。
「待ってください」
私は声を上げた。
全員が止まった。五十組が、一度に手を下ろした。
「その人、怪我をしています」
「しておるな」
ギヨームさんが横で言った。
「喧嘩ですか」
「稽古だ」
*
私はうまく飲み込めなかった。
「稽古で、あんなに打つんですか」
「打たねば身につかん」
「でも、折れます」
「折れる」
ギヨームさんは言った。
「折れて、そのままだ」
私は打たれた男を見た。
もう立っていた。左の肩が下がっている。腕が妙な角度で垂れていた。それでも右手で剣を持ち直して、こちらを見て、頭を下げた。
「続けてよろしいか」
ギヨームさんが聞いた。
私は答えられなかった。
*
中庭を歩いた。
近くで見ると、もっと分かった。
指の欠けた手で槍を握っている者がいた。片方の目が白くなっている者がいた。膝から下の向きが少しずれたまま歩いている者がいた。
誰も、それを気にしていなかった。
包帯を巻いている者が一人もいない。手当てをした跡が、どこにもなかった。
*
一人、若い兵が私の前に来た。
二十歳くらいだった。頭を下げて、それから顔を上げた。
「ユーグと申します」
「エリアスです」
「存じております」
その人は笑った。
この砦に来てから、笑った顔を見たのは初めてだった。
腹のあたりの鎧が、色が違っていた。下から何かが染みて、乾いた跡だった。
「見せてもらってもいいですか」
ユーグさんは鎧を上げた。
握り拳ほどの穴が開いていた。縁が乾いて、内側が暗くなっている。血は出ていない。
「痛みますか」
「痛みます」
「いつからですか」
「七月の二十日から」
ユーグさんは鎧を下ろした。
「ずっとです」
*
「ギヨームさん」
「なんだ」
「手当てをしましょう」
「無用だ」
「痛いはずです」
「痛かろうな」
ギヨームさんは中庭を見渡した。
「治らんものは治らん。巻いたところで同じだ。布が惜しい」
*
私は言い返せなかった。
言っていることは合っている。私も王都で試した。宮廷魔術師のセシルさんの腕に六日かけて、何も変わらなかった。森から持ってきた草を全部使って、傷は切った日のままだった。
治らないものは治らない。
それでも、と思った。
村では、治らない年寄りにも湿布を貼った。腰の痛みは取れないと分かっていて、マルグリット婆さんは毎朝貼らせた。貼っても同じだ、と言う人もいた。婆さんはそういう人にも貼った。
なぜだったのだろう。
考えたが、うまく言葉にならなかった。
「ギヨームさん」
「なんだ」
「布は、いくらでもあります」
ギヨームさんは、こちらを見た。
少しのあいだ、何も言わなかった。
「そうか」
*
その日の夕方、私は壁の上に上がった。
東を見た。
草の色が変わるあたりまでが、この国だという。その先も同じ草が生えていて、どこからが向こうなのか、私には見分けがつかなかった。
背後で、また打ち合う音が始まっていた。
止めたのは、私が見ていたあいだだけだった。




