第34話(幕間):もう増えん
七月二十日。境の戦。
朝から霧が出ていた。こういう日は動くなというのが教本だ。動いた。動かねば、こちらの補給線が先に切れる。
ユーグという若いのがいた。
二十歳だったか、二十一だったか。春に来た補充だ。南の村の三男坊で、鍬しか握ったことのない手をしていた。槍の持ち方から教えた。
朝、隊列を組むときに、そいつがわしの馬の脇に来た。
「ギヨーム様」
「なんだ」
「どこまでも付いてまいります」
わしは何も言わずに前を向いた。
そういうことを言う若いのは、たいてい最初の三月で死ぬ。言わせておいたほうがいい。言わずに死ぬより、たぶん本人が楽だ。
*
負けた。
書くほどのことはない。霧が晴れるのがこちらの読みより半刻早かった。それだけで陣形が透けた。あとは向こうの騎兵が段取りどおりに動いただけだ。
わしは三列目にいた。
崩れ始めた左を支えに出て、そこで受けた。
騎兵の穂先が胸当ての合わせ目に入った。合わせ目を狙ったのだと思う。あの日の騎兵は全員それをやっていた。よく鍛えられている。
落馬した。
誰かがわしを引きずった。四人がかりで担架に載せた。
運ばれながら、空を見ていた。霧が切れて、青が出ていた。晴れるのが半刻早かったせいで負けたのだと、そのときも考えていた。
息が止まった。
*
止まる瞬間は分かる。
苦しかったのはその前だ。止まるときは楽になる。担架の揺れが遠くなって、音が順に消えて、最後に自分の音がなくなる。
それははっきり覚えておる。
わしは二千八百四十一人を看取ってきた。あいつらが最後に何を見ていたのかを、ずっと知らなかった。
知った。
空だった。
*
どのくらい経ったのかは分からん。
起き上がった。
担架の上で身体を起こして、胸に手をやった。穴は開いたままだった。血は止まっていた。というより、出ていなかった。
周りを見た。
わしを運んでいた四人が、地面に倒れていた。
起き上がった。
四人とも、同じように身体を起こして、同じように立った。誰も声を上げなかった。
その向こうでも人が立ち上がっていた。担架を待っていた負傷兵も、退がる途中で倒れた者も、順に起きた。
草の上に、起き上がる音だけがしていた。
*
東の連中は、どうしたか。
あの日、追撃は途中で止まっておる。あと半刻押されていれば、こちらの荷駄は全部持っていかれていた。
止まった理由を、わしは長いこと考えなかった。深追いを嫌ったのだろうと思っていた。あの男の軍はいつもそうする。
いまになって思う。
見たのだ、わしらのことを。
*
ユーグがいた。
十歩ほど先で立っていた。腹に槍を受けたらしく、鎧の下から下が赤黒くなっていた。それでも立っていた。
目が合った。
「ギヨーム様」
そいつは言った。
「どこまでも付いてまいります」
朝と同じ言い方だった。
わしはそのとき、笑ったと思う。笑ったことを覚えておらんが、たぶん笑った。
朝、この若いのが同じことを言ったとき、わしはこう思った。三月で死ぬ、と。
半日だった。
そして本当に、どこまでも付いてくることになった。
あとで腹を見せろと言った。見せた。槍が抜けた跡が、握り拳ほど開いていた。
痛むかと聞いた。痛みますと答えた。
それきり、そいつはその話をしておらん。
*
その日、わしは誰も埋めなかった。
埋める必要がなかったからだ。
二千八百四十一人。三年前の冬が最後だ。あれから何度も戦をして、そのたびに数えてきた。
七月二十日で、数は止まった。
もう増えん。
*
言葉も要らなくなった。
よく戦った。あとは我らがやる。
二十年、二千八百四十一回。言う相手がいなくなった。
これは、悪いことではないはずだ。
言わずに済むというのは、埋めずに済むということだ。埋めずに済むというのは、死なずに済むということだ。二十年望んできたのはそれだった。
それなのに、口が動いた。
最初の晩、わしは何度も言いかけた。誰に向けてでもない。二十年の癖だ。歯を磨くのと同じで、身体が勝手にやる。
言いかけて、やめた。
誰も死んでおらんのだから、言う筋合いがない。
*
一つ、書いておく。
わしが息を止めたとき、誰もわしに土をかけなかった。
当たり前だ。まだ運ばれている途中だった。戦は続いていた。そのあとすぐ全員が倒れて、全員が起きた。誰も、誰にも、何も言う暇がなかった。
二十年、わしは二千八百四十一人に言ってきた。
わしには、誰も言わなかった。
これはただの事実だ。恨みではない。書いておかんと忘れる気がしたので、書いた。
*
三日目の朝、声が聞こえた。
西からだった。何を言っているのかは分からん。ただ、そちらだと分かった。
部隊をまとめた。
誰も嫌がらなかった。傷の重い者も歩いた。腹に穴の開いたユーグが、荷を担いで先頭を歩いていた。
一日で、常の三日ぶんを進んだ。誰も水を飲まず、誰も遅れなかった。
二十年、わしはこういう軍を欲しがっていた。
*
率直に書く。
わしは嬉しかった。
崩れん。退かん。逃げん。命じたところへ行き、命じるまで戻らん。二十年、半分の兵でこしらえようとしてこしらえられなかったものが、一夜で手に入った。
これがどういうことなのか、わしはまだ考えておらん。
考える気もない。
二十年負け続けた男が、二十年ぶりに勝てる材料を渡された。まず使う。考えるのはそのあとだ。
*
丘の上で、小僧を見つけた。
痩せた、背の低い、村の子供のような男だった。
あれが、そうか。
わしは馬から降りて、名を名乗った。




