第32話:連れていかないでください
クロエさんの部屋に、毎日通うようになった。
朝と夕に、皿を持っていく。置いて、少し話しかけて、下げに戻る。返事はない。
半分は残る。ときどき、三分の一しか減っていない日もある。それでも、置いておけば減っていた。
村では、寝込んだ者に婆さんがそうしていた。入るだけでいい、と言って、毎日運ぶ。話しかける。返事がなくても続ける。
そのうち起きる、と婆さんは言っていた。
*
薬草を探していた。
王都の周りに生えている草は、私の知らないものばかりだ。似た形のものは何度も見かけたが、匂いが違った。匂いが違えば別の草で、別の草は別の働きをする。
城の者に聞いてまわった。
誰も知らなかった。知らないというより、答えが揃いすぎていた。
どの人に聞いても、承知しておりません、と同じ調子で返ってくる。六万人いれば、一人くらい草を知っている者がいそうなものだった。
「クロエさん」
その日、私は皿を置いてから聞いてみた。
「この辺りの草を、ご存じないですか」
返事はなかった。
「眠れないときに効くものが、あればいいんですけど」
クロエさんは壁のほうを向いたままだった。
*
私は思いついた。
この人には、話し相手が要る。
城の者は皆、私にはよく仕えてくれるが、この人の部屋には入らない。食事を運ぶのも私だ。私が運ぶと言ったからだが、誰も代わりましょうとは言わなかった。
この人は、二ヶ月ひとりでいる。
村では、寝込んだ者の枕元には必ず誰かがいた。婆さんが座り、子供が出入りし、鶏が入ってきて追い出された。うるさいくらいだった。
私はリゼットのことを考えた。
*
その夜、私はリゼットに言った。
「明日、お母さんのところに行こう」
リゼットは私の袖を持ったまま、動かなかった。
「一緒に行こう。私も行くから」
「うん」
いつもと同じ返事だった。
けれど翌朝、部屋の前まで来ると、この子は立ち止まった。
扉から二歩ほど手前だった。私が手を引いても、そこから進まなかった。
「入らないの」
「うん」
「どうして」
リゼットは答えなかった。
私は少し考えて、思い当たった。
村を出るとき、この子は母親に悲鳴を上げられた。病が治って起き上がったばかりの子を見て、クロエさんは悲鳴を上げて逃げた。私はそれを見ている。
六つの子が、忘れるはずがない。
「大丈夫だよ」
私は膝をついて、目の高さを合わせた。
「あのときは、お母さんも具合が悪かったんだ。今は落ち着いてる」
「うん」
「怒られないよ」
「うん」
それでも、この子は動かなかった。
私は手を引いて、二歩ぶんだけ一緒に進んだ。
*
扉を開けた。
クロエさんは椅子に座って、壁のほうを向いていた。いつもと同じだ。
「クロエさん。リゼットを連れてきました」
肩が動いた。
それから、ゆっくりと首が回った。
私を見て、それから、私の後ろを見た。
*
長いあいだ、二人は動かなかった。
私は横に立って、待っていた。何か言ったほうがいいのか、黙っていたほうがいいのか分からなかった。
クロエさんが立ち上がった。
三歩で来た。膝をついて、リゼットの前に座った。
手を伸ばした。
頬に触れた。
触れて、そのまま止まった。
*
しばらくして、クロエさんは手を下ろした。
部屋の隅の櫃を開けて、中から櫛を出した。木の櫛だ。村から持ってきたものだろう。歯が二本欠けている。
リゼットの後ろに回って、髪を梳き始めた。
私は嬉しくなった。
こういうことだ、と思った。話さなくてもいい。同じ部屋にいて、髪を梳いて、それだけでいい。村でもそうだった。婆さんは何も言わずに人の頭を撫でた。それで治る人がいた。
櫛が滑らかに通っていた。
「よく通りますね」
私は言った。
「毎日梳いているんですか」
返事はなかった。
クロエさんは梳き続けた。上から下へ、ゆっくりと。何度も同じところを通した。
*
やがて、手が止まった。
櫛を持ったまま、動かなくなった。
私は待った。疲れたのかと思った。
「代わりましょうか」
クロエさんは首を振った。
それから、リゼットの髪を一房、指でつまんだ。
毛先を見ていた。
もう一度、根元から毛先まで指で辿った。辿り終えて、また毛先を見た。
「どうかしましたか」
クロエさんは答えなかった。
*
私は自分でも見てみた。
肩に届くくらいの長さだった。まっすぐで、細い。毛先が揃っている。
揃いすぎている、と思った。
村の子供の髪は、いつも先がばらばらだった。木の枝に引っかけ、走り回って切れ、そのたびにクロエさんが鋏を入れていた。ひと月に一度は切っていたはずだ。伸びるのが早い子だと言っていた。
城に来て、二ヶ月になる。
その間、切ったという話を聞いていない。
それなのに、肩に届くところで止まっていた。
私は少し考えて、答えを見つけた。
「切らなくてよくなったんですね」
私は言った。
「よかったです。手間が減ります」
*
クロエさんは、櫛を膝の上に置いた。
置いて、そのまま長いあいだ動かなかった。
背中が丸くなっていた。息をしているのが分かった。この部屋で息が聞こえるのは、この人と私だけだ。
リゼットは、じっと座っていた。
膝に手を置いて、背筋を伸ばして、動かない。梳いてもらう子供の座り方ではなかった。梳き終わるのを待っている座り方でもなかった。
ただ、そこにいた。
*
「エリアスさま」
声がした。
私は振り返った。
クロエさんが、私を見ていた。
二ヶ月ぶりに聞いた声だった。かすれていて、小さくて、それでも聞き取れた。
「はい」
私は膝をついた。
嬉しかった。何か言ってくれる。困っていることでも、欲しいものでも、何でもいい。言ってくれれば、私は用意できる。
クロエさんは、リゼットのほうを見た。
それから、私を見た。
「この子を」
声が震えていた。
「連れていかないでください」
*
私は、少しのあいだ黙っていた。
それから、笑った。
「まだ連れていきませんよ」
私は言った。
「約束したんです。この子の背が私の腰まで伸びたら、森へ連れていくって。柱に印もつけました」
クロエさんの顔から、色が引いた。
「三年か、四年はかかります」
私は続けた。
「それに、行くときはクロエさんも一緒です。ジャンさんも。みんなで行きましょう。森はいいところですよ。秋になると栗が落ちるんです」
クロエさんは、私を見ていた。
*
私はその日、機嫌がよかった。
クロエさんが喋った。二ヶ月ぶりだ。それも、娘のことを心配して喋った。
人は、心配することがあると口を開く。婆さんがそう言っていた。何も心配しなくなったら、そのときは本当に駄目なのだと。
まだ大丈夫だ。
部屋を出るとき、私は振り返った。
クロエさんは、まだ膝の上に櫛を置いていた。
リゼットは、その前に座ったままだった。
母親のほうを見ていた。私が来てからずっと、この子は一度もそちらを見なかったのに、扉が閉まる間際にだけ、そうしていた。




