第31話(幕間):南の商人ドナート・覚書
【九月十六日 ヴィタリス王都】
荷四台。人足を含めて七名。ヴァルツ港より陸路十一日。予定より一日早い。
王都に着いた。城門の前で国王が待っていた。
書き間違いではない。国王が、商人を、門で待っていた。
三十年この商いをしているが、聞いたこともない。相手が小国でも、王が門に出ることはない。出るとすれば戦の勝将を迎えるときだけだ。
王は十六か、せいぜい十七に見えた。痩せている。上着は仕立てが良いが、身体に合っていない。
手を差し出された。握った。
こちらの手を握ったまま、しばらく離さなかった。困ったが、悪い気はしなかった。
*
街を通った。
市が立っていた。台に品が並び、売り手と買い手が向かい合っている。
声がしなかった。
値を言う声も、値切る声も、呼び込みもない。
市というのは音でできている。目をつぶっていても、そこが市かどうかは分かる。
ここでは分からない。
人はいる。品もある。取引だけがない。
*
倉を検めた。
東門内、石造り五棟。うち三棟が満載。南に四棟あるという。東に三、北に二。
袋を開けて確かめた。粒が揃っている。乾きも良い。今年の物だ。
量が異常だ。この国の人口では説明がつかない。
交渉に入った。
交渉の相手は、アンリ七世だった。
これも書き間違いではない。四十年この国を治めた男が、いま新しい王の半歩後ろに下がって立っている。
譲位の噂は南にも届いていた。信じていなかった。四十年座った王が、そこまで若い相手に位を譲るなど、あるはずがない。
あった。
六十半ば。痩せて、眼窩が落ちている。
値を叩こうとした。いつもの手だ。輸送費を単価に乗せて話し、南の相場は落ちていると言う。
通らなかった。
この老人は、書類を一度も見なかった。南の相場が去年の秋に落ちて春に二割五分戻したことを言い当てた。船賃が量で逓減することも承知していた。挙句、五年前に私が北のカレンツで扱った量と値まで出してきた。
あれは私の商いだ。記録に残るものではない。
値はあちらの言い値で決まった。
三十年で、これほど完敗したのは初めてだ。腹は立たない。見事だった。
なお、元国王が商人と値を詰めた。
この国では、それが当たり前らしい。
なぜ位を譲られたのかと尋ねた。
「民が望みましたので」と返ってきた。
それは答えではない。私は三十年、答えでない返事を聞き分けて生きてきた。
一つ、書いておく。
あの老人は、話しているあいだ一度も瞬きをしなかった。数えていたのではない。気づいてしまっただけだ。
*
夕食に招かれた。
卓に載りきらぬほど出た。品数は十四。王が同席した。
部屋に十四人が立っていた。運んだ者、控えの者、扉の脇に二人。
全員が、我々が食べるのを見ていた。
食事はどうしたのかと尋ねた。「済ませております」と返ってきた。
私は食った。うまかった。
王が「よく食べますね」と言った。褒められた。
よく食べると褒められたのは、八つの年以来だ。
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値 こちらの言い値ならず。先方の言い値。
量 初回二千二百俵。三月後に同量。
船 四艘。ヴァルツにて手配。
利 この値でも、南で捌けば三倍。
三倍だ。書いていて手が震える。
三倍のせいだと思うことにする。
眠れない。灯りを消せない。消すと、廊下の音が聞こえるからだ。
音がまったくしない。しないことが聞こえる。
*
【九月十七日】
朝、食えなかった。
一晩眠っていない。腹が減っていないわけではない。手が動かなかった。
卓には昨日と同じだけ出ていた。パンを割った。そこで手が止まった。
王が「お口に合いませんでしたか」と聞いた。
昼、魚が出た。
川魚だが、油で焼いて香草を添えてあった。南の焼き方だ。この国の者が知るはずのないやり方だ。
どこで覚えたのかと尋ねた。
王が答えた。「今朝、私が頼みました」
一口食って、それ以上は食えなかった。
書き足す。慣れぬ料理を半日で仕上げることはできる。腕が良ければできる。
ただし、味を見ながらでなければできない。
私はこの二日、味を見る者を一人も見ていない。
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書付に印を捺した。老人が紙の端を押さえた。指が触れた。
冷たかった。
この国は南ほどではないが、九月の昼は暑い。
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数え始めた。
この街に入って二日。
人が物を口に入れるところを、一度も見ていない。
市で買い食いする者がいない。厨房で味を見る者がいない。井戸端で水を飲む者がいない。
我々七人だけが食っている。
書き足す。犬を見ていない。猫も見ていない。鼠も見ていない。城の厨房に鼠がいない厨房というものが、この世にあるか。
匂いがしない。六万人の街で、厨房の煙も、掃き溜めも、家畜も匂わない。
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午後、マルコが倒れた。
中庭で荷を検めていた。日射しのせいではない。この男は南の夏を三十年歩いている。
城の者が集まってきた。三人が抱え起こし、一人が水を持ってきた。手順が良い。慌てた者が一人もいなかった。
王が駆けつけた。
マルコが目を開けて、王を見て、悲鳴を上げた。
夜、寝台の脇で聞いた。何を見たのかと。
答えない。震えている。
「旦那」とだけ言った。「早く出ましょう」
従者六名のうち、四名が部屋から出なくなった。
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夜中に廊下へ出た。
灯りが一つもない。城全体だ。
暗い中に、人が立っていた。
数えて十一人。動かない。喋らない。壁に沿って、決まった間隔で。
何をしているのかと尋ねた。
「お待ちしております」と返ってきた。
何を待っているのかは、尋ねなかった。
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【九月十八日】
発つ。夜半のうちに出る。門番には言わぬ。
書付は交わした。ゆえに商いは済んでいる。三月後の荷も約した。
私はまた来る。
来たくない。それでも来る。この量をこの値で出す国は、大陸のどこにもない。三倍だ。三度運べば、私は港に自分の倉を持てる。
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王に暇を告げた。五日の約が二日で切れた。
王は引き止めた。
海の話を聞きたいと言った。船を見たことがないと言った。南では何を食うのかと聞いた。
答えた。海は大きい。船は木だ。魚と油と酸っぱい果実を食う。
短く答えた。早く終わらせたかったからだ。
それでも、あの子供は次を聞いてきた。次も、その次も。答えるたびに嬉しそうにした。
やがて聞くことがなくなって、黙った。
あのとき気づいた。
この子供は、誰とも話していない。
城には六万人の民がいて、全員が頭を下げる。誰も、この子供に話しかけていない。
*
以上を並べれば、答えは出る。
私は算盤を弾く男だ。数を並べて答えを出すことで三十年食ってきた。並べたのだから、出ないはずがない。
書けば、来られなくなる。だから書かない。
*
三月後。二度目の荷。ヴァルツにて四艘。
書きながら気づいた。私は途中から、あの方を子供と書いている。
書付を交わした相手だ。王と書くべきだ。
三十年、帳面に嘘を書いたことがない。
ゆえに直さない。
*
次は王には会わぬようにしよう。
会えば、また引き止められる。そして私は、また答えてしまう。
あの子供は、私に海の話をしてくれと言った。
三十年商いをしてきて、何かをしてくれと言われたのは、値引きと掛け売りのほかにない。




