第30話:短いですね
二日目の朝、ドナートさんは食べなかった。
卓には昨日と同じだけ出ていた。パンも、卵も、干した果実も。ドナートさんはパンを一つ取って、割って、そこで手が止まった。
しばらく、割ったまま持っていた。
それから、皿に戻した。
「お口に合いませんでしたか」
私が聞くと、ドナートさんは首を振った。
「いえ」
「では、体調が」
「大事ありません」
顔色は良くなかった。目の下が黒くなっていた。
昨夜、灯りが朝までついていたのを私は知っている。眠れなかったのだ。
「寝台が硬かったでしょうか」
「いえ」
「言ってください。取り替えさせます」
「結構でございます」
ドナートさんは水だけ飲んだ。
*
私は厨房へ行った。
「ジャンさん」
「エリアス」
「南の人は、何を食べるんでしょう」
「知らん」
「魚だと思うんです。海の近くだと言っていたので」
ジャンさんは手を止めた。
「川魚ならある」
「同じでしょうか」
「違うだろうな」
「作れますか」
「作る」
その日の昼、川魚が出た。
油で焼いて、香草を添えたものだった。ジャンさんは魚を焼いたことがない。それでも私が言ったから作った。
ドナートさんは、一口食べた。
それから、卓の下で手を握るのが見えた。震えていた。
「おいしくないですか」
「おいしゅうございます」
「では」
「陛下」
ドナートさんは顔を上げた。
「厨房の方は、これをどこでお覚えに」
「今朝、私が頼みました」
「今朝」
「はい」
ドナートさんは、それきり食べなかった。
*
午後、ドナートさんの従者が一人倒れた。
中庭で荷を検めているときだった。膝から崩れて、そのまま動かなくなった。
私は走った。
駆けつけたとき、その人の周りに城の者が集まっていた。三人が抱え起こそうとしていて、一人が水を持ってきていた。誰も慌てていなかった。
「大丈夫ですか」
私が声をかけると、倒れていた人が目を開けた。
私を見た。
そして、悲鳴を上げた。
*
私はその場から下がった。
自分がいると良くないのだと分かったからだ。王が近くにいると、具合の悪い人は気が休まらない。村でも、庄屋が見舞いに来ると病人が余計に疲れていた。
部屋に戻って、私は考えた。
あの人は日射しに当たりすぎたのだと思う。南から十日以上歩いてきて、着いた翌日にまた荷を検めていた。疲れが出たのだ。
休ませなくてはいけない。
私はアンリさんを呼んで、南の方々を休ませるように言った。滞在を延ばしてもらってもいい、費用はこちらで持つ、と伝えるように。
「かしこまりました」
*
夕方、ドナートさんが来た。
「陛下。お暇を頂戴したく」
「え」
「明朝、発たせていただきます」
私は立ち上がった。
「五日と伺っていました」
「商いは済みました。書付も交わしました。あとは船の手配のみにございます」
「でも、まだ三日あります」
「充分でございます」
ドナートさんは頭を下げた。
その姿勢のまま、少し長かった。
「あの」
私は言った。
「何か、失礼がありましたか」
「ございません」
「もてなしが足りませんでしたか」
「いえ」
「言ってください。直します」
「陛下」
ドナートさんは顔を上げた。
私はその顔を見た。
怒ってはいなかった。呆れてもいなかった。困ってもいなかった。強いて言えば、走り続けた人が息を継ぐ場所を探している顔だった。
「何も、足りぬものはございませんでした」
ドナートさんは言った。
「一つも」
*
私は引き止めた。
海の話を聞きたいと言った。船を見たことがないと言った。南の町ではどんなものを食べるのかと聞いた。明日の朝に発つのなら、今夜だけでもいい、話をしてくれませんかと言った。
ドナートさんは、全部に答えてくれた。
海は大きい。船は木でできている。南では魚と、油と、酸っぱい果物を食べる。
答えは短かった。
私はもっと聞きたかった。行商の人は、こちらが聞かなくても話してくれた。三つ向こうの谷の話を、頼んでもいないのに一刻もしてくれた。
この人は、聞いたことにだけ答えた。
やがて、私は聞くことがなくなった。
「明日、見送ります」
「もったいのうございます」
「行きます」
*
次の朝、私は門へ出た。
荷車はなかった。
門番に聞くと、夜のあいだに発ったという。
「いつですか」
「三刻ほど前かと」
「暗いのに」
「はい」
門番はそう答えた。
私は街道を見た。丘の裾まで、誰も歩いていなかった。
*
城へ戻って、私は客間へ行った。
置き忘れがあるかもしれないと思った。あれば取っておいて、三月後に渡せる。
部屋は片づいていた。寝台は整えられ、床に埃一つない。夜のうちに発ったはずなのに、もう掃除が済んでいた。
卓の上に、紙が一枚あった。
厚くて、上等なものだった。折り目が一つ。開くと、細かい字がびっしりと並んでいた。端まで詰まっていて、裏にも続いていた。
私には読めない。
*
「アンリさん」
私は執務室へ持っていった。
「これ、ドナートさんのものですか」
アンリさんは紙を受け取った。
目を落とした。
しばらく、動かなかった。
読んでください、と言おうとした矢先だった。
「手紙にございます」
アンリさんが言った。
「陛下宛の」
「私に」
「はい」
*
「このたびの商い、まことに有難く存じます」
アンリさんは読み始めた。
「品は申し分なく、値も相応にございました。船の手配は南にて済ませます。三月ののちに、二度目の荷を頂戴したく存じます」
そこで止まった。
私は待った。
「以上にございます」
アンリさんは紙を折った。
私はその紙を見ていた。
両面に字が詰まっていた。裏の下のほうまで、隙間なく並んでいた。
「短いですね」
「はい」
「もっと書いてあるように見えました」
「商いの文は、細かく書くものにございます」
「そうですか」
「数と、日取りと、船の名を並べますので」
私はうなずいた。
*
嬉しかった。
三月のちにまた来る、と書いてあった。次はもっと長くいてもらえるかもしれない。海の話を、今度はゆっくり聞ける。
今回は、私が下手だったのだ。
急に呼んで、いきなり門で出迎えて、初日から食べきれないほど出して、二日目には頼んでもいない魚を焼かせた。もてなしすぎたのだと思う。人は、そうされると気を遣う。
村の行商だって、家に上げすぎると次から来なくなった。婆さんがそう言っていた。ほどほどにしておきな、と。
次は、ほどほどにしよう。
*
執務室を出るとき、私は振り返った。
アンリさんは、まだ紙を持っていた。
両手で持って、窓のほうを向いていた。読み返しているようには見えなかった。ただ、そこに立っていた。
私は声をかけずに、扉を閉めた。




