第29話:南から来た人
「商人が参ります」
アンリさんがそう言ったのは、祭りから十日ほど経った朝だった。
「南から。麦の件で使いを出しておりました」
「いつ着きますか」
「明後日の昼かと」
私は嬉しくなった。
*
その二日を、私は落ち着かずに過ごした。
考えてみれば、私はこの二ヶ月、外から来た人に会っていない。城に入ってから会ったのは、もともとこの国にいた人たちばかりだ。
どんな人だろう、と考えた。
村にも、たまに行商が来た。荷を背負って、鍋や針や塩を売りに来る。私は森から降りてその日に当たると、決まって荷の中を覗かせてもらった。売り物ではなく、その人の話が面白かった。三つ向こうの谷でこういうことがあった、というような話だ。
村の外の話を聞けるのは、あの人からだけだった。
「アンリさん」
「はい」
「その人は、どのくらいいてくれますか」
「商いが済むまでかと」
「何日でしょう」
「量が量にございます。五日は」
五日、と私は思った。
*
当日、私は門まで出た。
「陛下がお出になる要はございません」
アンリさんはそう言ったが、私は行った。村では、行商が来ると子供が門まで走った。私もそうしていた。
昼を少し過ぎて、街道の向こうに荷車が見えた。
四台だった。馬が引いていて、その脇に人が歩いている。全部で七人ほど。近づくにつれ、車輪の音と、馬の足音と、それから人の声が聞こえてきた。
声がしていた。
誰かが誰かに何かを言って、別の誰かが笑った。それだけのことなのに、私は妙な心地がした。
*
荷車が門の手前で止まった。
先頭の男が降りてきた。五十くらいだろうか。日に焼けて、腹が出ていて、上等な布の上着を着ていた。指に太い輪をはめている。
その人は門を見上げ、それから道の両側を見た。
両側には人が並んでいた。門番と、荷を検める者と、その日たまたま通りかかった者たちだ。全員が頭を下げていた。私が門に立っているからだ。
男の足が止まった。
しばらく、動かなかった。
「あの」
私が声をかけると、男は肩を跳ねさせた。
「南から来られた方ですか」
「……はい」
「よく来てくださいました」
私は手を差し出した。
村で行商にそうしていたからだ。あの人はいつも、まず手を握ってから荷を下ろした。
男は自分の手を見て、それから私の手を見た。
握った。
*
あたたかかった。
私はそのことに驚いて、少しのあいだ手を離せなかった。
久しぶりだ、と思った。
なぜ久しぶりなのかは、考えなかった。都の人は握手をしないのだろう、と思っただけだ。この城では誰も私に触れない。それはもう知っている。
「あの、失礼ですが」
男が言った。
「こちらの方は」
私の後ろで、アンリさんが答えた。
「ヴィタリス王国国王、エリアス一世陛下にあられます」
男の顔から、色が引いた。
*
ドナート、というのがその人の名前だった。
南の海沿いの町から来たという。三十年、麦と塩と油を商っているらしい。私は町の名前を聞いたが、覚えられなかった。
「陛下自ら、お出迎えいただくとは」
「来てほしかったので」
「は」
「話を聞きたくて」
ドナートさんは、それきり何も言わなかった。
*
倉へ案内した。
東門の内側の、天井まで麦の袋が積んである建物だ。扉を開けたとき、ドナートさんは一歩下がった。
それから中へ入って、上を見上げた。
「これで、全部ですか」
「南の倉にもあります」
アンリさんが答えた。
「東にも三つ。北に二つ」
ドナートさんは袋を一つ開けて、中の麦を掌に取った。指で潰して、匂いを嗅いで、粒を噛んだ。
長いあいだ、そうしていた。
「悪くありません」
「悪くない、でございますか」
「いや」
ドナートさんは掌の麦を袋に戻した。
「良い」
*
商談が始まった。
私には何を話しているのか半分も分からなかった。値と、量と、運ぶ日と、船の話をしていた。
ドナートさんは、初めのうち笑っていた。
こういう量は捌けるところが限られる、輸送に金がかかる、南は去年が豊作だったので値が落ちている、と言っていた。だから安く買いたい、という意味らしいと後で分かった。
アンリさんは、書類を見なかった。
「南の相場は、去年の秋に一度落ちて、春に戻っております。戻り幅は二割五分。落ちたままではございません」
「よくご存じで」
「船賃は、この量なら一艘あたりで下がります。四艘以上お使いになるでしょう。単価で申されるのは、こちらが知らぬ前提のお話かと」
ドナートさんの笑いが止まった。
「五年前、貴殿は北のカレンツで同じ量を扱っておられます。そのときの値も、こちらに記録がございます」
部屋が静かになった。
私はアンリさんの横顔を見た。
いつもと同じ顔だった。四十年ぶんの紙を読んできた人が、その紙を初めて外に向けて使っていた。
値は、こちらの言うとおりに決まった。
*
夕方、食事にした。
広間の長い卓に、ドナートさんと従者の人たちを座らせた。私も座った。城の者が料理を運んできた。
量が多かった。
祭りの残りではない。今日のために作らせたものだ。私が量を増やすように言ったので、卓に載りきらないほど出てきた。
ドナートさんは、食べた。
私はそれを見ていた。
パンを割って、汁に浸して、口に入れる。噛む。回数は決まっていない。十度噛むこともあれば、三度で飲み込むこともある。途中で水を飲む。飲んでから、また食べる。
肉を骨から外すのに手間取って、指を使った。使ってから、布で拭いた。
途中で、一度むせた。
私は嬉しくなった。
「よく食べますね」
「は」
「いいことです」
ドナートさんは、口の中のものを飲み込んだ。
それから、部屋を見回した。
卓の周りには、十四人が立っていた。運んできた者と、控えている者だ。全員が動かずに立って、私たちが食べるのを見ていた。
「あの者たちは」
「給仕の者です」
「食事は」
「済ませております」
私はそう答えた。いつも自分がそう答えられているからだ。
ドナートさんは、椀を置いた。
*
その夜、私は寝つけなかった。
嬉しかったからだ。
五日いてくれる。明日は南の話を聞こうと思った。海というものを見たことがないので、それを聞きたかった。
水を飲もうと思って部屋を出た。
廊下はいつもどおり暗い。灯りをつける必要のある者がいないからだ。私は壁に手を当てて歩いた。
角を曲がったところで、光が見えた。
客間の扉の下から、細く漏れていた。
ドナートさんの部屋だった。
まだ起きているのか、と思った。長旅で疲れているだろうに。
声をかけようかと思って、やめた。商いの人は夜に帳面をつけると聞いたことがある。邪魔をしてはいけない。
私は水を飲んで、部屋へ戻った。
朝、廊下を通ったとき、その光はまだ漏れていた。




