第25話:窯が温まらない
翌日、私は倉を見にいった。
王都の東門の内側に、大きな石造りの建物が並んでいた。屋根が高い。中に入ると、天井まで麦の袋が積んであった。
私は上を見上げた。
村の倉は、私の背丈の二つ分ほどだった。ここは十倍ある。
「これで、どのくらい保ちますか」
案内の者が答えた。
「六万人が食べますなら、二年ほどかと」
「二年」
「はい」
私はうなずいた。
二年ぶんあれば、飢饉が来ても大丈夫だ。アンリさんは四十年、飢饉のたびに蔵を開けたと言っていた。開ける蔵がこれだけあれば、あの人も苦労しなかっただろう。
*
その日の午後、アンリさんが紙を持ってきた。
「陛下。麦のことでご相談がございます」
「はい」
「置いておけば、傷みます」
「傷む」
「湿気を吸って、虫がつきます。二年は保つと申しましたが、それは倉に余裕がある場合です。天井まで詰めますと、下のほうから駄目になります」
私は困った。
「では、どうすれば」
「売ります」
「売る」
「南に商人がおります。この量なら、買い手はいくらでもつきましょう」
私はうまく飲み込めなかった。
「売ったら、みんなの分がなくなりませんか」
「なくなりません」
アンリさんはそう言って、それきり黙った。
この人はよくこういう止まり方をする。答えは短いのに、そのあとが続かない。
「本当に、余っているんですか」
「余っております」
「どのくらい」
アンリさんは紙を見た。
見たまま、しばらく動かなかった。
「……大半が」
「大半」
「はい」
私は自分の指を見た。
数えようとして、やめた。麦の袋がいくつあるのか、それが六万人の何日ぶんなのか、私には見当がつかない。村の倉なら数えられた。三十戸ぶんの袋を、私は毎年、婆さんと一緒に数えていた。
ここは村ではない。
「アンリさんが決めてください」
私は言った。
「私には、分かりません」
「かしこまりました」
*
倉を出ようとして、私は奥の一角に目を止めた。
麦の袋ではないものが積んであった。
籠だった。
浅い籠が、床から私の胸の高さまで積み上がっていた。一つの列だけではない。壁に沿って、ずっと奥まで続いていた。
いちばん上の籠に、布がかかっていた。
私はそれをめくった。
パンだった。
*
二十ほど入っていた。
どれも硬くなっていた。表面が白く粉を吹いて、指で押しても凹まない。焼いてから何日も経っている。
私は次の籠を見た。同じだった。その次も。
下のほうの籠は、もっと古かった。乾いて縮んで、色が変わっていた。
全部、ジャンさんが焼いたパンだった。
毎朝、籠に入れて配られると聞いていた。どこへ配られるのかを、私は聞いていなかった。
配られて、戻ってきていた。
「あの」
私は案内の者に聞いた。
「これは」
「毎朝、城下に配られたものにございます」
「配ったのに、なぜここに」
「夕刻に、各家から戻されます」
「戻される」
「はい」
その人は言った。
「どなたも、お受け取りにはなります。ただ、召し上がる方がおられませんので」
*
私はしばらく、その籠の山を見ていた。
二十日ぶんか、三十日ぶんか。数えようとして、やめた。
みんな、遠慮しているのだ。
そう思うことにした。王が来て、いろいろなことが変わって、パンが毎朝配られるようになって、断るのは悪いと思って受け取っている。受け取るけれど、もらいすぎだと思って戻している。
村でもそういうことはあった。誰かが多く採れた年に、配って回る。もらいすぎた家は、こっそり返す。
そういうことだ。
私は籠に布をかけ直した。
*
その夜、私は厨房へ行った。
ジャンさんは窯の前にいた。明日の分の生地を寝かせているところだった。
「ジャンさん」
「エリアス」
「倉に行きました」
ジャンさんの手が止まった。
少しのあいだ、動かなかった。それから、また生地に布をかけた。
「そうか」
「たくさんありました」
「そうだな」
私は聞いた。
「知っていましたか」
「知ってる」
「戻ってくると知っていて、焼いているんですか」
「焼いてる」
「なぜですか」
ジャンさんは、窯のほうを向いていた。
落とす前の、赤いだけになった火だった。
「焼かねえと」
そこで止まった。
私は待った。
この人が言葉に詰まるのを、私は見たことがない。二十年パンを焼いてきて、言うことも焼き方と同じくらい決まっている人だった。硬えのが好きなら硬く焼く。それだけの人だ。
「ジャンさん」
ジャンさんの喉が動いた。
息を吸って、口を開いて、そこで止まった。もう一度やって、同じところで止まった。
台の上の手が、生地の布を握っていた。布に指の跡がついた。
私はその止まり方に見覚えがあった。
ヴァレリーさんが、私に何か言おうとして言えなかったときと、同じだった。あのときは疲れているのだと思った。この人も疲れているのだろう。三日三晩、畑に出ていたのだから。
「無理に言わなくていいです」
私は言った。
ジャンさんは、私のほうを向いた。
向いてから、その顔で少し笑った。
「お前が食うだろう」
*
私は返す言葉が出てこなかった。
毎朝、籠にいっぱい焼く。そのうちの一つから硬いところだけを取り分けて、私のために別にしておく。村でしていたことと同じだ。
六万人に配って、六万人から戻ってきて、それでも次の朝には同じだけ焼く。
その中の、ひと切れのために。
「そんなの、私の分だけ焼けばいいじゃないですか」
「駄目だ」
ジャンさんは即答した。
「一つだけ焼いても、うまくならねえ。窯が温まらねえからな」
そういうものらしかった。
「明日も焼きますか」
「焼く」
*
部屋に戻って、私は手のひらを見た。
皮が剥けたところが、まだ塞がっていない。三日経っている。
村なら、二日で塞がるはずの傷だった。
薬草がないせいだ、と私は思った。森から持ってきた分は、セシルさんの腕に全部使ってしまった。王都の周りに生えている草は、私の知らないものばかりだ。
明日、誰かに聞いてみよう。この街のどこかに、私の知っている草を知っている人がいるかもしれない。六万人もいるのだから。
寝台に横になって、私は天井を見ていた。
刈り入れが終わった。
村では、終わった日の夜に祭りをした。広場に火を焚いて、その年の麦で焼いたパンを配って、婆さんたちが歌を歌う。ジャンさんは朝から晩まで窯の前に立ちっぱなしで、それでも一年でいちばん機嫌がよかった。
そういえば、この街では何もなかった。
三日で刈り終えて、荷車で運んで、それで終わりだった。誰も広場に集まらなかった。
みんな、疲れているのだろう。
三日三晩、休まずに刈ったのだから。
*
次の朝、私は執務室でアンリさんに言った。
「祭りをしましょう」
アンリさんが顔を上げた。
「祭り」
「刈り入れの祭りです。村ではやっていました。この街ではやらないんですか」
「以前は、ございました」
「以前」
「四年前が最後にございます。不作が続きましたので」
「じゃあ、今年はできますね」
私は言った。
「今年は一倍半なんでしょう。四年ぶんまとめてやりましょう」
アンリさんは、私を見ていた。
少しのあいだ、何も言わなかった。
「陛下」
「はい」
「祭りでは、皆が食べます」
「はい」
「広場に卓を出して、火を焚いて、皆で食べます」
「そうです」
私はうなずいた。
「みんな、喜びますよね」
アンリさんは目を伏せた。
それから、書類の角を揃えた。この人が困ったときにする動きだ。私はもうそれを知っていた。知っていて、意味までは分かっていなかった。
「かしこまりました」
やがて、そう言った。
「ご命令とあらば」




