第23話:お元気そうです
セシルさんは、卓の上の紙束を引き寄せた。
「これが、この一ヶ月の記録です」
「読めません」
「存じております。読み上げましょうか」
「お願いします」
私は紙束を覗き込んだ。
字は読めない。けれど、どの紙も端に同じ形の印が並んでいるのは分かった。日ごとに一つずつ増えているらしかった。
「几帳面ですね」
「師の流儀です」
「お師匠さんがいるんですか」
「おります」
セシルさんは紙を揃えた。
「リリーベル様と申します。私などよりずっと先まで行っておられます」
その名を言うとき、この人の声が少し変わった。
「会えますか」
紙を揃える手が止まった。
「……いまは、少し」
「お忙しいんですか」
「はい。そのようなものです」
「落ち着いたら、会わせてください」
「はい」
セシルさんは紙をめくった。
「一日目。刃物による切創。痛覚あり。出血なし」
セシルさんの読み方は速かった。書いた本人だから、目で追う必要がないのだろう。
「二日目、変化なし。三日目、変化なし。四日目、変化なし。五日目、変化なし」
同じ言葉が続いた。
変化なし、変化なし、変化なし。十日を過ぎても、その言葉しか出てこなかった。私は途中から、次に何が来るか分かるようになった。
「十九日目。切創の縁がわずかに縮む。乾燥によるものと思われる」
「縮んだんですか」
「治ったのではありません。乾いたのです」
「乾いた」
「木の枝を折って、そのまま置いておくと、折れ口の縁が丸くなります。腐るのでも塞がるのでもなく、ただ縮む。あれと同じです」
私はうまく飲み込めなかった。
人の傷が、木の枝と同じように乾く。そういう言い方を、私は聞いたことがない。村では、傷は膿むか塞がるかのどちらかだった。膿めば熱が出て、塞がれば跡が残る。どちらでもないという話を、私は知らない。
「二十六日目」
セシルさんの声が止まった。
紙を見たままだった。目は動いていた。字を追っているのは分かった。それなのに、声が出てこなかった。
「セシルさん」
「……失礼」
セシルさんは、次の紙をめくった。
「二十八日目。変化なし」
私は、いま飛ばされた一枚のことを聞かなかった。
聞いても、また同じ顔をさせるだけだと思ったからだ。この城には、そういう顔をする人が多い。アンリさんも、マルグリット婆さんも、ヴァレリーさんも、みんな同じところで黙る。
都には都の作法があるのだろう、と私はもう考えなくなっていた。
ただ、そういうものだと思うことにしていた。
*
「陛下。一つ、ご相談がございます」
「はい」
「乾きを、遅らせたいのです」
「乾き」
「この一ヶ月で、城の者の何人かに変化が出ております。指先の色が変わったり、肌が薄くなったり。急ぐことではありませんが、放っておけば進みます」
私はうなずいた。
その話は、私も気づいていた。
みんな、少しずつ痩せている。アンリさんの眼窩はますます落ちくぼんだし、ロランさんの手の甲は皮が張りついたようになった。食べないからだと思って、私は厨房に量を増やさせた。それでも変わらない。
「治せますか」
「治すのではなく、遅らせるのです。油と、塩と、香草を使います。古い書物にやり方が残っております」
「それは、みんなが楽になりますか」
セシルさんは少し考えた。
「見た目が保たれます」
「痛みは」
「痛みは、そのままかと」
私は黙った。
「陛下。それでも、やる価値はございます」
セシルさんは言った。
「人は、自分の指が変わっていくのを見るのが辛いのです。見えなければ、少しは気が楽になります」
*
私は許可を出した。
必要な油と塩の量を聞いて、アンリさんに伝えるつもりだった。この人が言うなら、倉から出せるはずだ。麦は余っている。塩も、南から買えばいい。
みんなの見た目が保たれるなら、それはいいことだと思った。
痛みが取れないのは残念だが、痛みというのはそういうものだ。村でも、腰の痛い年寄りに私ができたのは、湿布を貼ることだけだった。取れない痛みと付き合っていくのは、誰にでもあることだと思っていた。
みんな、我慢しているのだろう。
誰も痛いと言わないから、そのことを私は忘れていた。
「ありがとうございます」
セシルさんは頭を下げた。それから、顔を上げて言った。
「陛下。代わりと申しては何ですが」
「はい」
「一つ、お願いがございます」
「なんでしょう」
「陛下のお身体を、測らせていただけませんか」
*
誰にも言われたことのないことだった。
この城で、私に触れる人はいない。手を取られたのは、アンリさんに階を上るとき一度だけだ。みんな、私の周りに空きを作って立っている。
「いいですよ」
「ありがとうございます」
セシルさんは私の前に椅子を引いた。座って、私の左手を取った。
指を、手首の内側に当てた。
目を伏せた。唇が少し動いていた。数えているのだと分かった。
しばらくして、指を離した。
それから、また当てた。
もう一度、数えた。
三度目のとき、私は聞いた。
「どうかしましたか」
「いえ」
セシルさんは指を離した。
顔を上げた。
その顔を、私は見た。
困っているのでも、驚いているのでもなかった。分からないものを見たときの顔だった。この人が自分の腕を切って眺めているときの顔と、たぶん同じものだ。
「セシルさん」
「はい」
「私、どこか悪いですか」
「いいえ」
セシルさんは言った。
「お元気そうです」
*
部屋を出るとき、私は振り返った。
セシルさんは、もう紙に何かを書いていた。
左腕の布はそのままだった。私が巻いたものだ。明日また替えに来ると言ってあるが、たぶん替えても同じだろう。
あの傷は、あのままだ。
乾いて、縁が丸くなって、それでも閉じない。
私は廊下を歩きながら、自分の手首に指を当ててみた。
セシルさんがやっていたのと同じ場所に、同じように当てた。
動いていた。
当たり前だ、と思って、私は手を下ろした。
当たり前でないなら、あの人は三度も数え直さなかっただろう。




