第207話:火山羊
ファティマ様の声は、思ったより遠くまで通った。
港の者がいくつも顔を上げた。石段のほうへ、それが伝わっていくのが見えた。
エリアス陛下だけが、こちらを向かれない。
相変わらず寝たままの男の手を握ったまま、耳を下ろしていらっしゃる。何か聞き取ろうとしておられるようだった。
レイスが歩きだした。
石段のほうへ向かっている。
人の壁がある。さっきから、誰も下がれずにいる。
私は前に出て、いちばん端にいた者の袖を引いた。引かれた者が下がって、その後ろも下がった。
「どけ!おい、通せって! 真面目、お前も手伝え!」
ディエゴが反対の側から声を出した。列が割れて、石段までの道が開いた。
私は先に石段を下りた。
エリアス陛下は、まだしゃがんでおられた。板の上の男の手を、両手で握っている。
「陛下。レイスが、こちらへ参ります」
「はい」
陛下は、握っていた手を板の上に優しく戻されてからお立ちになった。
レイスが来て、陛下の前で止まる。
彼は右手を体の脇につけて、腰から折れるように、深く頭を下げた。
港の誰も、声を出さなかった。
*
「この度の恩義。生涯、忘れません」
*
「よかったですね」
エリアス陛下は微笑まれてそう仰った。
「サフラさんはとても良い子です。お父さんと会えて、本当によかったです」
レイスは無言で頭を下げ続けていた。
そこへ地鳴りのような大声が響く。
「そこ、詰めろ!座る場所を空けろ!」
ハムザ総督だった。大きな樽を一つ肩に乗せている。
「……酒か!」
「ディエゴ。意地汚い。まず人を退けようよ」
いつのまにやら近くに寄ってきたセヴィが、呆れながらそう言った。
気がつけば、港は宴の席に早変わりだ。
ヌオモの兵も、赤い旗の海賊も一緒だった。
流石に交じるわけにもいかず距離はあったが、それでも皆の顔には笑顔が浮かんでいた。
海に目をやると、レイスが率いていた他の海賊の船影は、すでにどこにもなかった。
*
「お前がレイスか」
ハムザ総督が杯を二つ持って話しかける。レイスは軽く頷くだけだ。
「過去の話をするつもりはねえ。そして互いに散った部下や仲間もあるから馴れ合いもしねえ」
杯を一つ、レイスに渡した。
「だが今日は助かった。礼を言わせてくれ」
レイスは無言のまま杯を受け取り、一息で飲み干した。
「動きが読めずに苦労した。前任者よりも苦手だ」
敬意の混じった言い方だった。
「火鯱にそんな風に言ってもらえるとはな。おい!オヤジ!聞いたか!」
アフメド王も杯を手に近づく。
「馴れ合わないんじゃなかったのか、お前」
「海の男同士の挨拶の範疇だ。なぁ?」
レイスは特に反応しなかった。今度はアフメド王が声を掛けた。
「レイス。ヌオモに戻らないか?」
周囲がざわつく。
「遺恨があるのは承知の上。そちらにもこちらにも」
続ける。
「だが事情があった。俺はそれを取り除いた」
「聞いた」
アフメド王もレイスも、表情に動きはない。
そこへハムザ総督が割って入る。
「そうだ、火鯱。戻ってこい。そしたらお前が一でオレが二だ」
「お前を楽させるためじゃないぞ」
レイスは静かに、そして丁寧に告げた。
「ありがたい申し出だが、断る」
「そうか」
アフメド王は短く答えて、自分とレイスの杯に酒を注いだ。
そこへ赤い旗の船のほうから声がした。
「俺達は船長についていくぜ!」
さっきの、肩の厚い男だった。パコ、と名乗った男である。
周りの海賊たちも杯を掲げて、そうだそうだ、と声を挙げた。
*
「で、どこへ行くつもりだ」
アフメド王がレイスに問いかける。
「海はもういい。次は北で、山の賊にでもなる」
アフメド王が笑われた。
「あっはっは。火鯱ではなく火山羊、というわけか」
「雪山だ。せめて豹にしてもらいたい」
この男が笑うのを初めて見た。




