第206話:お礼なら
誰も動かなかった。
赤い旗の船は、列のいちばん外に着けたきりだった。板が渡らない。
綱で引き寄せもしない。舷の上に男が立って、下を見ている。
頭の先から靴まで赤かった。
立襟が首まで閉まっている。染めの色がどれも揃っていた。
あれだけの赤を一色に揃えるのがどれほどのことか、私は知らない。ただ、揃っているということだけは分かる。
左の袖は短い。肘から先を折り返して留めてあった。残っている右の一本が、幅の広い帯のあたりで止まっている。帯には、父上が言っていた半月刀が差してあった。
風が来るたび、銀の髪が片側へ寄って、また戻った。
港の者は下がろうとしていた。下がろうとして、後ろが詰まっているので下がれずにいる。
船が着いてから日が傾くまで、もうそれだけ経っている。石の上の影が長い。
荷を揚げるために寄せてあった樽と縄は、誰の手も付かないまま置いてあった。
「なぁ。動かねぇぞ」
ディエゴが横で言った。
「だって板を渡してないんだもん」
セヴィが反応する。
「あの腕の帯。何重に巻いてるんだ?」
「四重か、五重」
セヴィはそれきり黙った。
*
私は、人の並びのほうを見ていた。
石段の左に、水を配る者が立っている。右が、降りてきた者を座らせる場所だ。
前の列が動かないので、桶が後ろへ回らない。回らないまま、桶を持った者が肘を上げて立っていた。
私は一歩下がって、後ろにいた者の袖を引いた。
その者が下がり、その後ろも下がって、列が少しだけ割れた。桶が通った。
ティンニーンや他の船からようやく人が降りはじめて、椀を受け取って水を飲む。
血で黒くなった袖の者も、裸足の者もいた。誰も喋らない。飲むだけだ。
赤い旗の船からも人が下りてきていた。だが、レイスはまだ船を下りる気配を見せない。
下りた者を座らせて、名を聞いて書く。
ムフタル殿が紙を抱えて、隣のファティマ様に何か言う。ファティマ様も書き取るのを手伝っていらっしゃっていた。
うちの領でも、戦のあとは同じことをした。書き終わるまで、家の者を帰さない。
ヴォルフ殿と父上は、樽の脇に立って動かなかった。
父上はこちらを見ておらず、ただレイスだけを見据えている。
エリアス陛下は、石段の下におられた。
板を並べた上に、水を吸った男が寝かされている。そのそばにしゃがんで、手を探して、見つけて、握ったまま動かれない。
着いてすぐ、ヴォルフ殿が連れていって、そのまま置いてきたのだ。
ベルナール司祭様は、人の壁の向こうにいる。こちらの騒ぎには出てこない。ペドロ殿が、その隣に立っていた。
*
赤い旗の船から下りた海賊が一人、こちらへ近づいてきた。
背の低い、肩の厚い男だった。私たちの前で足を止めて、三人を順に見た。
「あんたらか」
「なんだ、お前」
ディエゴが警戒する目つきで訊き返した。
「司祭様がいるって聞いた」
ディエゴが後ろを見た。私も見た。人の背に隠れて、頭のてっぺんしか見えない。出てくる気配も無い。
「留守だ」
「そうかい」
男はそれでも突っ立っていた。椀の水を飲み干して、袖で口を拭く。
「弟のために祈ってくれたようで」
ディエゴが黙っていると、男は続けた。
「境の関で番をしてる。手紙に書いてきた。旅の司祭が通って、祈ってやると言ってくれたと。あいつ、そういうことを書いてくるんだ」
私は、その顔を見直した。
関を抜けるとき、門の脇に若いのが立っていた。
ベルナール司祭様に何か頼んでいた。承ります、と司祭様は言った。私は後ろで聞いていた。
目のあたりが似ている。
「その様子なら見ていたよ」
「そうか」
「すぐ後ろにいたんだ。司祭様は、承ります、と申されていた」
男は椀を持ったまま、動かなかった。
「境の兵士レップの兄、パコだ。人様に誇れる立場の人間じゃないが、司祭様に礼を伝えておいてくれ」
「ああ、必ず伝える」
男は頷いて、戻っていった。
*
レイスが、船を下りてきた。
渡し板が鳴らない。腰が上下しない。
石の上に降りて、止まった。
アフメド王が前へ出られた。
その横に、サフラがいた。
王の手を握っている。指を全部使って、下から掴む握り方だ。
レイスはサフラを見た。
何も言わない。港の誰も何も言わない。ムフタルの紙が風で鳴った音まで聞こえた。
アフメド王が、手を開かれた。
サフラは、すぐには離さなかった。離してから、王を見上げた。それからレイスのほうへ向き直って、頭を下げた。
膝を少し折って、両手を前で合わせて下げる。仕込まれた形である。
レイスは、右手を途中まで上げて、下ろした。
抱かない。名も呼ばない。サフラも何も言わない。
二人とも、表情は動かなかった。
*
レイスの元を離れ、サフラがこちらへ歩いてきた。
ディエゴの前まで来て、顔を上げた。
「ディエゴさま。ありがとうございました」
ディエゴは手を腿で拭いた。それから、拭いても何にもならないことに気づいた顔をした。
「おう」
ほかに何も出てこないらしい。柄にもなく照れてるのか?
「足、見せてみろ」
サフラは素直に片足を上げた。峠の家で巻かれた布は、もう無い。代わりに新しいのが巻いてある。
「治ってんな」
「はい」
それから、サフラは横を向いた。
「セヴィさま。上着、ありがとうございました」
「うん」
セヴィは眼鏡を押し上げた。
「僕は寒いのが嫌いなんだ。だから返してもらったよ」
サフラは、少し首を傾げて、それから頷いた。
私の前へは来なかったが、会釈された。
*
気がつくと石を二つ分ほど空けたところに、レイスは立っていた。
右手は、帯の上で止まったままだった。
「世話になった」
それだけだった。
声は低いが、通る。海の上で号令をかける声だ。敬語ではない。
ディエゴが言った。
「いらねぇ。俺はただ運んだだけだ」
「そうか」
男は、それだけ返した。
「そうだよ」
セヴィが、横で言った。
その時、ファティマ様が紙を下ろした。
私たちの後ろから前へ出てきて、紙を胸の前で抱え直した。それから、レイスに向かって言った。
「お礼ならエリアス陛下に。あの御方がサフラさんを救うよう、皆に嘆願なさったのです」
レイスが顔を向けた。
エリアス陛下は、石段の下でしゃがんだままだった。寝かされた男の手を握って、耳を近くまで下ろしている。こちらを向いていない。




