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白王と黒王  作者: ブルースライム
第3章:レーヌ小国群

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206/210

第206話:お礼なら

 誰も動かなかった。


 赤い旗の船は、列のいちばん外に着けたきりだった。板が渡らない。


 綱で引き寄せもしない。舷の上に男が立って、下を見ている。


 頭の先から靴まで赤かった。


 立襟が首まで閉まっている。染めの色がどれも揃っていた。


 あれだけの赤を一色に揃えるのがどれほどのことか、私は知らない。ただ、揃っているということだけは分かる。


 左の袖は短い。肘から先を折り返して留めてあった。残っている右の一本が、幅の広い帯のあたりで止まっている。帯には、父上が言っていた半月刀が差してあった。


 風が来るたび、銀の髪が片側へ寄って、また戻った。


 港の者は下がろうとしていた。下がろうとして、後ろが詰まっているので下がれずにいる。


 船が着いてから日が傾くまで、もうそれだけ経っている。石の上の影が長い。


 荷を揚げるために寄せてあった樽と縄は、誰の手も付かないまま置いてあった。


「なぁ。動かねぇぞ」


 ディエゴが横で言った。


「だって板を渡してないんだもん」


 セヴィが反応する。


「あの腕の帯。何重に巻いてるんだ?」


「四重か、五重」


 セヴィはそれきり黙った。


     *


 私は、人の並びのほうを見ていた。


 石段の左に、水を配る者が立っている。右が、降りてきた者を座らせる場所だ。


 前の列が動かないので、桶が後ろへ回らない。回らないまま、桶を持った者が肘を上げて立っていた。


 私は一歩下がって、後ろにいた者の袖を引いた。


 その者が下がり、その後ろも下がって、列が少しだけ割れた。桶が通った。


 ティンニーンや他の船からようやく人が降りはじめて、椀を受け取って水を飲む。


 血で黒くなった袖の者も、裸足の者もいた。誰も喋らない。飲むだけだ。


 赤い旗の船からも人が下りてきていた。だが、レイスはまだ船を下りる気配を見せない。


 下りた者を座らせて、名を聞いて書く。


 ムフタル殿が紙を抱えて、隣のファティマ様に何か言う。ファティマ様も書き取るのを手伝っていらっしゃっていた。


 うちの領でも、戦のあとは同じことをした。書き終わるまで、家の者を帰さない。


 ヴォルフ殿と父上は、樽の脇に立って動かなかった。


 父上はこちらを見ておらず、ただレイスだけを見据えている。


 エリアス陛下は、石段の下におられた。


 板を並べた上に、水を吸った男が寝かされている。そのそばにしゃがんで、手を探して、見つけて、握ったまま動かれない。


 着いてすぐ、ヴォルフ殿が連れていって、そのまま置いてきたのだ。


 ベルナール司祭様は、人の壁の向こうにいる。こちらの騒ぎには出てこない。ペドロ殿が、その隣に立っていた。


     *


 赤い旗の船から下りた海賊が一人、こちらへ近づいてきた。


 背の低い、肩の厚い男だった。私たちの前で足を止めて、三人を順に見た。


「あんたらか」


「なんだ、お前」


 ディエゴが警戒する目つきで訊き返した。


「司祭様がいるって聞いた」


 ディエゴが後ろを見た。私も見た。人の背に隠れて、頭のてっぺんしか見えない。出てくる気配も無い。


「留守だ」


「そうかい」


 男はそれでも突っ立っていた。椀の水を飲み干して、袖で口を拭く。


「弟のために祈ってくれたようで」


 ディエゴが黙っていると、男は続けた。


「境の関で番をしてる。手紙に書いてきた。旅の司祭が通って、祈ってやると言ってくれたと。あいつ、そういうことを書いてくるんだ」


 私は、その顔を見直した。


 関を抜けるとき、門の脇に若いのが立っていた。


 ベルナール司祭様に何か頼んでいた。承ります、と司祭様は言った。私は後ろで聞いていた。


 目のあたりが似ている。


「その様子なら見ていたよ」


「そうか」


「すぐ後ろにいたんだ。司祭様は、承ります、と申されていた」


 男は椀を持ったまま、動かなかった。


「境の兵士レップの兄、パコだ。人様に誇れる立場の人間じゃないが、司祭様に礼を伝えておいてくれ」


「ああ、必ず伝える」


 男は頷いて、戻っていった。


     *


 レイスが、船を下りてきた。


 渡し板が鳴らない。腰が上下しない。


 石の上に降りて、止まった。


 アフメド王が前へ出られた。


 その横に、サフラがいた。


 王の手を握っている。指を全部使って、下から掴む握り方だ。


 レイスはサフラを見た。


 何も言わない。港の誰も何も言わない。ムフタルの紙が風で鳴った音まで聞こえた。


 アフメド王が、手を開かれた。


 サフラは、すぐには離さなかった。離してから、王を見上げた。それからレイスのほうへ向き直って、頭を下げた。


 膝を少し折って、両手を前で合わせて下げる。仕込まれた形である。


 レイスは、右手を途中まで上げて、下ろした。


 抱かない。名も呼ばない。サフラも何も言わない。


 二人とも、表情は動かなかった。


     *


 レイスの元を離れ、サフラがこちらへ歩いてきた。


 ディエゴの前まで来て、顔を上げた。


「ディエゴさま。ありがとうございました」


 ディエゴは手を腿で拭いた。それから、拭いても何にもならないことに気づいた顔をした。


「おう」


 ほかに何も出てこないらしい。柄にもなく照れてるのか?


「足、見せてみろ」


 サフラは素直に片足を上げた。峠の家で巻かれた布は、もう無い。代わりに新しいのが巻いてある。


「治ってんな」


「はい」


 それから、サフラは横を向いた。


「セヴィさま。上着、ありがとうございました」


「うん」


 セヴィは眼鏡を押し上げた。


「僕は寒いのが嫌いなんだ。だから返してもらったよ」


 サフラは、少し首を傾げて、それから頷いた。


 私の前へは来なかったが、会釈された。


     *


 気がつくと石を二つ分ほど空けたところに、レイスは立っていた。


 右手は、帯の上で止まったままだった。


「世話になった」


 それだけだった。


 声は低いが、通る。海の上で号令をかける声だ。敬語ではない。


 ディエゴが言った。


「いらねぇ。俺はただ運んだだけだ」


「そうか」


 男は、それだけ返した。


「そうだよ」


 セヴィが、横で言った。


 その時、ファティマ様が紙を下ろした。


 私たちの後ろから前へ出てきて、紙を胸の前で抱え直した。それから、レイスに向かって言った。


「お礼ならエリアス陛下に。あの御方がサフラさんを救うよう、皆に嘆願なさったのです」


 レイスが顔を向けた。


 エリアス陛下は、石段の下でしゃがんだままだった。寝かされた男の手を握って、耳を近くまで下ろしている。こちらを向いていない。

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