第203話:後ろ
海賊の言伝が来たのは、まだ日が高いうちだった。
紙もない。小舟で漕ぎ寄せた男が、舷の下から怒鳴っただけだ。
前は任せる。後ろへ回る。
それだけ言って、返事も待たずに離れていった。宛名も、署名も、印もない。ものを頼む者の口の利き方ではなかった。
私は笑った。副官も笑った。
「言伝の形すら知らんとみえる」
「ガルシア船長。海賊に形を求めるのが酷なのでしょう」
だが、悪くはない。
前を我々が引き受け、あれが向こうの尻を突く。海賊ごときに任せられるのは、そのくらいのものだ。
綱を投げて乗り移って暴れるしか能のない連中を、並びの中に入れたところで、位置を守れと言って守るはずもない。
外を回らせておくほうが、こちらの邪魔にならない。
受ける、と返させた。
*
問題は、前をやるのが誰か、である。
オソリオ侯の船団は、朝から数を減らしている。うちは減っていない。減っていないほうが前へ出る。道理である。
その道理を旗にして回させたのは私だ。公爵閣下のお耳には、そう入る。
日が傾いてから、返ってきた旗も同じ形だった。塊を真ん中へ寄せろ、と。
舳を揃えさせた。旗と旗のあいだを詰めさせた。前を細く、厚くする。細く厚くまとめれば、曲がらずに済む。まっすぐ抜くだけだからだ。
抜けた先には、向こうの港がある。傷んだ船を引き上げるのも、帆桁を積み替えるのも、あそこでしかできまい。
あそこの前に立てば、この海は終わる。
*
伍長が上がってきた。
平民から拾い上げた男で、目はいい。
「船長。後ろの海賊が、噛みません」
「回っているのだ。後ろへ回れと、あちらが自分で言ってきた」
「回っているのなら、離れていくはずです。昼からずっと、同じ間合いです」
副官が鼻を鳴らした。
「貴様は海賊の心づもりが分かるのか」
「漁師の倅ですので、海のやつらのことは、少しは」
「なら漁のことだけ言え」
伍長は口を閉じた。閉じてから、まだ何か言いたそうにしていた。
私は手を振った。
「間合いを測っているのだろう。海賊は間合いを測る」
言ってから、悪くない話だと思った。あれが後ろで動かずにいるということは、こちらの並びに手を出す気がないということだ。
手を出されないのなら、後ろは考えなくていい。
考えなくていいものが一つ減った。
「下がれ」
伍長は下がった。
*
旗が振られて、塊が動いた。
風は横から入っていた。舷が鳴って、甲板の下で人の音がして、そのあとは前しか見なかった。
向こうの塊が、真ん中から割れた。
思ったとおりだ。
厚いものが来れば、薄いものは割れる。割れた両端は、割れた向きへ流れるしかない。細く厚くしたのは、そのためだ。
私は舵の男に、まっすぐ行けと言った。
左右の海が開いていく。開いた先に、向こうの港の影が見えた。
「船長。閣下の船団に、この形を伝えます」
副官だった。
「伝えろ。誰が抜いたかもだ」
抜けた。
あとは向きを変えて、割れて外へ流れたやつの背を、左右から潰していけばいい。
「後ろへ展開。左右へ開いて」
言い終える前に、上から声が落ちてきた。
「後ろ!後ろが燃えてます!」
*
振り返った。
赤かった。
我々が抜けてきた道の、そのまた後ろが、赤かった。水の上に燃えた帆が落ちて浮いて、その火の向こうから、また火が飛んでいた。火矢だ。数が分からないほど飛んでいた。
燃えているのは、こちらの船だった。後ろに置いてきた、侯爵の船団だ。
後ろから、焼かれていた。
弓なりに伸びて動かなかったものが、動いていた。
赤い旗が、真ん中から出てきていた。
こちらの尻に向いていた。
「船長、右!右も来ます!」
左右へ広がっていた海賊が、内へ向きを変えていた。外を回っていたのではない。外に置かれていたのだ。置いた手が、いま閉じにきている。
そして正面で、割れて流れたはずのやつらが、艫を回して並び直していた。
割れたのではない。開けられたのだ。
私は前を見て、後ろを見て、それから左右を見た。
包囲の真ん中にいるのは、我々だ。
赤い旗は、前にいる。




