第192話:六割は超えた
教会の帳面を、もう一度借りてみた。
一度目と同じところを読んで、同じところで終わる。
新しいことは何も出てこない。出てこないと分かっていて開いたんだから、当たり前だけども。
「おい、セリー」
外からディエゴが呼んだ。
「ベルナールが戻ってきたぞ」
*
僕は帳面を返して、宿へ戻った。
教区は三つ残っていたはずだ。一つ回って戻ってきたことになる。
予定が二つぶんずれている。
ずれたということは、何か持って帰ってきたということ。
*
「紙を、手伝ってまいりました」
ベルナールは、卓に着くなりそう言った。
「紙?」
ディエゴが訊いた。
「掌紋、と申すそうにございます。子どもの手のひらにインクを塗って、紙に押させるのです」
「なんだそりゃ」
ディエゴが顔をしかめる。
「二十人ぶんございました。月末までに、王都へ届けるのだそうです」
ライアンが質問した
「月末まで、ということは毎月のことなのでしょうか」
「毎月にございます。去年から始まったもので、それ以前は無かったとのことです」
ベルナールは、卓を見回した。
「どこの院も、同じ紙を使うそうにございます。枠の位置も、大きさも」
「同じ紙」
ライアンが繰り返した。
「はい。そして、名を書かせませぬ」
面白い。とても、面白い。
「押すのは掌紋。あとは番号だけにございます。押し方と、番号と、枚数。どれか合わなければ、王都から突き返されるのだそうです」
ペドロが言った。
「詰所の紙は、そうはなっておりません。誰が出したか、どこの隊か、必ず書かせます。でなければ、後で誰も責を負わなくなりますので」
なるほど。
「ベルナール。名前、本当に書かないんだね?」
「書きませぬ。私も塗る側に回りましたので、間違いございません」
僕は指で卓をなぞった。
消していく。
数えるための紙じゃない。人別でもない。届けでもない。
「それ、数えるための紙じゃないよ」
「どういうことだ?」
ディエゴが身を乗り出した。
「子どもについて詳しく知りたいなら、名前が要る。名前が無いと、紙の内容と子どもが紐づかない」
みんな、黙って聞いてた。
「どうして掌紋だけなのか」
ディエゴが眉を寄せた。ライアンは動かない。
「数えたいんじゃないんだ。確かめたいんだよ」
「セヴィ、教えてくれ。何をだ」
訊いたのはライアンだった。
「同じ人が、まだそこにいるかどうか」
ベルナールとペドロが頷いてる。
「毎月やってる。去年から。全部の院から集めて、全部同じ形にして、どこの院のものか分からないようにして」
僕はそこで言葉を切った。
「大勢の中の、一人を確かめてる」
ディエゴが唸る。
「なんでそんな面倒くせぇことをしてるんだよ」
「誰にも悟られず、誰にも知られず、でも正確に確かめるため」
なんか視界がぼやけるな、と思ったら眼鏡が汚れてた。
上着の端で軽く拭き取ってから掛け直す。
「一つはっきりしたことがあるよ」
*
「あの子は、教会の孤児院にいる」
*
ディエゴが立ち上がりかけて、座り直す。
「そう断言する根拠を教えていただけますか」
ペドロが興味深そうに、でも半ば確信した上で質問してきた。
「掌紋を押すように言われているのはどこ?」
頷いた。こいつ、案外嫌なやつかも。
「じゃあ行きゃいいじゃねぇか!」
「バカだなぁ。それがロルオーには数十か所あるんだってば」
僕はベルナールを見た。ベルナールは『その通り』と答える。
「全部ばらばらの土地にある。回りきれないよ」
ディエゴは何か言いかけて、やめた。
*
「それについてですが、もう一つ、お話がございます」
ベルナールが話し始めた。
その院で、修道女に相談されたこと。
峠の向こうの院に同じ齢の姉妹がいて、その姉妹が困っていること。
相談された側にも答えられなかったので、司祭に聞いてほしかったこと。
子どもたちで山へ実を採りに出て、野の犬に出くわしたこと。
女の子が一人、犬のほうへ歩いていき、犬は逃げていったこと。
「修道女が申すには、問題は一人で犬に立ち向かったことではないのだそうです」
ベルナールは、湯呑みに手を掛けなかった。
「そのあいだ、その子の顔が、少しも動かなかったと。戻ってからも、震えもせず、泣きもせず」
「ベルナール司祭様。その子どもの年齢は幾つなのでしょうか」
ライアンだった。声が少し低かった。
「六つ、と」
*
部屋が静かになった。
ディエゴが、鼻から息を吐いた。
ライアンは、卓の木目を見ていた。
僕も黙っていた。言えば、ただの願望になっちゃうから。
*
「続けてになりますが私からも、一つございます。悪い知らせです」
ペドロだった。
「今日、詰所で聞きました。王都から人が来ているそうです」
「……兵か!」
ディエゴの声が硬くなった。
「いいえ。紙の人です。この一月、どんな問い合わせがあったかを、役所と詰所で洗っているようでした」
*
僕はしばらく卓を見ていた。
それから、頭の中で並べ直した。
教会の帳面。道。役所の控え。
どれも、当たって何も出なかったところだ。
「まずいね」
「何がだよ」
ディエゴが言った。
「僕らが当たったところ、全部あっちが切ってあったところなんだ」
「だから何も出なかったんだろ」
「そう。でもね」
*
「切ってあるところに立て続けに顔を出す人間は、探してる人間しかいないんだよ」
*
ディエゴが天井を見た。
「まずいな」
「だから、そう言ったよ」
「いつだよ」
「分かんない。向こうがいつ気づくかなんて、こっちからは見えないよ」
ベルナールが口を開いた。
「峠の向こうまでは、歩いて二日にございます。道は険しく、冬は難儀すると聞いております」
ライアンが言った。
「回るはずだった教区は、どうなさるおつもりですか」
「二つ残っております。ですが、相談を受けた司祭がその院を訪ねるのは、務めにございます」
*
「おい、セヴィ」
珍しい、名前で呼ばれた。
「行くんだろ?」
「まだ何も言ってないよ」
「言ってなくても顔に書いてあるぞ」
僕は自分の顔を触った。触っても分からない。
「当たる保証は無いからね。数十か所のうちの一つを、話一つで選ぶんだ」
「聞いてんのはそこじゃねぇ」
「ごめん、意地悪い言い方だった」
*
「六割は超えたよ」




