第191話:叱ってよいものか
卓を囲んだ翌朝、皆が持ち場へ戻った。
戻る先に解が無いことは、昨夜のうちに全員が知っている。
知っているが、戻る他ない。
セヴィリーナ殿は、教会の帳面をもう一度借りに行かれた。普段であれば同じものを読み直す方ではない。
ライアン殿とディエゴ殿は道へ出られた。辿れるところまでは辿ってある。
ペドロは詰所へ。
そして私は、教区へ戻る。
残る教区は三つである。
回り終えれば、留まる謂れがなくなる。
*
院は、坂の上にあった。
石を積んだ塀と、木の門。門は開いている。閉めるほどのものが中に無いのだろう。
庭で子どもが十人ばかり、板を運んでいた。二人がかりで一枚を持ち、途中で落として、また拾っている。
落とすたびに笑うので、作業は進んでいない。
「司祭様。ようこそお越しくださいました」
中から出てきたのは、まだ若い修道女だった。
袖が濡れている。手も赤い。朝から水を使っていた手である。
「巡回にございます」
「まあ。あの、こちらは、その、ご覧のとおりでして」
「どうぞ普段通りに。見定めのために参ったのではございませんので」
修道女は少し笑って、それから頭を下げた。
*
礼拝の刻限は守られていた。
板は歪んでおり、燭は短く、床は掃いてある。
私は祈った。
子どもたちは、途中で飽きた者から順に膝を崩していく。
修道女が一人ずつ背を伸ばさせて回っていた。
終わったあと、年嵩の男の子が私のところへ来て、袖を引いた。
「これ、なに」
留め具を指している。
「枝と、根にございます」
「どっちが上」
「あなたはどちらだと思われますか」
男の子は、しばらく考えて、根のほうを上にして持ち上げた。
私は、それでよろしゅうございます、と伝えた。
*
昼を過ぎて、修道女が卓に紙を並べはじめた。
二十枚ばかり。どれも同じ大きさで、同じところに枠が引いてある。
脇に小さな壺が置いてあった。蓋を取ると、黒い。
教会では見慣れぬ光景だ。
私は興味を惹かれた。
「インクにございますか」
「はい。あの、お恥ずかしいのですけれど、これを月末までに出さねばならなくて」
修道女は、子どもを一人呼んだ。
呼んで、手のひらに指で塗って、紙の枠へ押させる。名を記した様子はないが、番号を記す箇所はあった。
子どもは黒く塗られた手を見て、笑っている。
「掌紋、と申すのだそうです」
「二十人ぶんを、お一人で」
「はい。それで、あの、今日は司祭様がおいでですので、申し上げにくいのですが……」
「お手伝いいたしましょう」
「ありがとうございます……」
私と修道女が塗り、子どもが押す。
二人でやると、思ったより早く進む。
紙は、どこにも綴じ穴が無い。束ねて紐で括るだけの形である。
枠の位置は決めてあり、すべての紙が統一された書式なのが印象に残った。
「これは、教会がお決めになったことでしょうか」
「いいえ。お上からです」
修道女は、次の子の手を取った。
「去年からでして。どこの院も同じ紙だそうです。毎月、王都へ届けます」
「毎月」
「はい。押し方、番号、そして紙の数が合わないと戻ってまいります。一度、返されたことがありまして」
修道女は肩をすくめた。
「あれは応えました」
子どもの手は、小さい。
押させると、枠からはみ出す。はみ出したものは押し直しになる。
押し直した紙は、破って捨てていた。
*
日が傾いてから、修道女が茶を持ってきた。
子どもたちは外へ出ている。楽しげな声が聞こえていた。
「司祭様。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「わたくしのことではないのです。峠の向こうの院に、同じ齢の姉妹がおりまして」
修道女は湯呑みを両手で持った。
「先月、里へ下りてきたときに、相談されたのです。わたくしは何と言ってあげればよいか分からず、司祭様に聞いていただきたいのです」
*
「子どものことでございますか」
「はい。女の子です」
修道女は、そこで少し言い淀んだ。
「山へ、皆で出たのだそうです。実を採りに。そうしましたら、犬が」
「野の犬でございますか」
「三匹だったと聞いております。子どもが十人ほどおりましたので、姉妹はもう、どうしてよいか分からなくなって」
茶から湯気が、まっすぐ上がっていた。
「そのとき、その子が前へ出たのだそうです」
*
「落ちていた棒を拾って、犬のほうへ歩いていった、と」
*
「怪我は」
「ございません。犬が退いたのだそうです。追い払ったというほどのこともなく、ただ、向こうが退いたようです」
修道女は湯呑みを置いた。
「その姉妹が申しますには、怖いのはそこではないのだそうです」
「と、申されますと」
「そのあいだ、その子の顔が、少しも動かなかったと」
*
外で、子どもが誰かの名を呼んでいた。
誰かが返事をして、それきり静かになった。
「戻ってきてからも、何も言わなかったそうです。震えもせず、泣きもせず。ほかの子は皆、泣いたのに」
「幾つの子でございますか」
「六つと聞いております」
*
私は、茶を飲んだ。
ぬるくなっていた。
「峠の向こうと申されますと、ここからは」
「歩いて二日ほどでしょうか。道はやや険しく、冬は越えるのに難儀いたします」
「子は、何人おりますか」
「あちらは十五人ほどと。うちより少し多いくらいです」
修道女は湯呑みを持ち直した。
「その姉妹に、なんと申せばよかったのでしょう」
修道女は、湯呑みの縁を指でなぞった。
「叱ってよいものか、分からないのです」
「悪いことをしたわけではありません。あの子のおかげで、皆が無事であったのならば尚更です」
修道女は、そこで言葉を探した。
「けれども、あのままにしておいてよいものかと、姉妹は申すのです。あの子は、ほかの子と、何かが違うと」
「違う、というのは」
「わたくしにも、うまく申せません」
*
卓の上には、まだ書き終えていない紙が残っていた。
どれも同じ形をしている。
*
「祈りましょう」
*
私は、目を閉じた。




