第19話:隠されたもの
その日の夕方、ヴァレリーさんが一人で戻ってきた。
アンリさんは議会に出ていて、部屋には私しかいなかった。
「陛下。少しよろしいでしょうか」
「はい」
ヴァレリーさんは扉を閉めた。それから、卓の向かいに立った。座らなかった。
「昼の件、お気を悪くされましたでしょうか」
「いいえ」
「アンリ様と、意見が食い違いました」
「よく分かりませんでした」
私は正直に言った。
「二人とも、怒っていないように見えました。でも、何かあったんですよね」
「ございました」
ヴァレリーさんは認めた。
「あの方は四十年、この国を守られました。守るというのは、動かさないということです。動かせば壊れるかもしれない。だから動かさない。それで四十年、この国は壊れませんでした」
「いいことですよね」
「はい」
ヴァレリーさんは言った。
「そして、良くもなりませんでした」
*
「私は二十二年、宰相を務めております」
ヴァレリーさんは言った。
「二十二年で、私が通した案は三十七件です。上げた案は四百を超えます」
私は数えようとして、諦めた。指の数を超えると分からなくなる。
「多いんですか、少ないんですか」
「少のうございます」
「そうですか」
「陛下は、この二十日で、八百件を超えられました」
私は顔を上げた。
「八百」
「はい」
ヴァレリーさんは、初めて少し笑った。
「私は、それを見ておりました」
その顔を、私は見た。
嬉しそうだった。ギヨームさんが「もう死なん」と言ったときと、少し似ていた。長いあいだ我慢していた人が、我慢しなくてよくなったときの顔だ。
「陛下」
「はい」
「ご自分の力を、ご存じないでしょう」
*
「力?」
「はい」
「触ると起きる、というだけです」
「そうではございません」
ヴァレリーさんは一歩、卓に近づいた。
「陛下がこの国にもたらされたものは、そんな話では」
そこで、言葉が止まった。
私は待った。
ヴァレリーさんは口を開けたまま、動かなかった。
喉が動いた。息を吸う動きだった。吸って、言葉の形に口を開いて、そこで止まる。もう一度やった。同じところで止まった。
三度目のとき、この人の指が卓の縁を掴んだ。
爪が白くなるほど強く掴んでいた。上着の皺一つ許さない男が、その姿勢のまま動かなくなっていた。
声が出なかった。
「ヴァレリーさん」
「……」
「大丈夫ですか」
ヴァレリーさんは、自分の喉に手を当てた。
それから、その手を下ろした。ゆっくりと、確かめるように下ろした。
顔から表情が消えていた。
「失礼をいたしました」
やっと、そう言った。
「疲れているんですね。東を回ってきたばかりですし」
「はい」
「休んでください」
「はい」
ヴァレリーさんは頭を下げた。
下げたまま、少し長かった。
*
「陛下」
顔を上げて、ヴァレリーさんは言った。
「一つだけ、申し上げます」
「はい」
「アンリ様は、陛下に多くを話されないでしょう」
私はうなずいた。それは、そうかもしれない。あの人は聞かれたことには答えるが、自分からは話さない。
「あの方は、そういう方です」
「はい」
「それが優しさであることも、私は存じております」
ヴァレリーさんは言った。
「ですが陛下。優しさで隠されたものは、隠されたままでは終わりません」
「どういう意味ですか」
「いずれ、お分かりになります」
その言い方に、脅かすような響きはなかった。
むしろ、疲れているように聞こえた。
「おやすみなさいませ」
ヴァレリーさんは部屋を出ていった。
*
私は一人で、卓の前に座っていた。
あの人が最後に見せた顔を、うまく思い出せなかった。
怒っていたのでもない。悲しんでいたのでもない。強いて言えば、走っていて急に足を掴まれた人の顔に似ていた。前に進もうとしているのに、何かがそれを許さないときの顔だ。
疲れているのだ、と私はもう一度考えた。東を回って帰ってきたばかりで、その足で執務室に来て、夜まで話していた。休ませなくてはいけない。
八百件、と言われた数を思い出した。
この二十日で、私はそれだけの紙に印を押した。橋が直る。井戸が掘られる。堰が動く。二十二年待った人が、それを喜んでいた。
悪いことは、何もしていないはずだ。
窓の外が暗くなっていた。
城のどこかで、誰かが立っている。灯りもつけずに、朝まで。
私はそれを知っていた。知っていて、もう気にしないことにしていた。
みんな、働くのが好きなのだから。




