第18話:褒める人
*ヴァレリーのイメージイラストを後書きに追加しました。
その男は、私の顔を見て話した。
城に来てから、そういう人はいなかった。みんな私と話すとき、床か、自分の手か、少し斜め下を見ている。アンリさんでさえ、書類を見ながら話すことが多い。
その男だけが、まっすぐ私を見た。
「宰相のヴァレリーと申します」
五十五だと後で聞いた。背が高く、痩せていて、髪をきれいに撫でつけている。上着に皺が一つもなかった。
「お目にかかるのが遅れました。東の管区を回っておりましたので」
「東の管区?」
「はい。街道と倉の様子を見てまいりました。陛下がお決めになった修繕の件です」
私が印を押した書類の話だった。
「もう、始まっているんですか」
「三日前から。リヴォー橋は、あと十日ほどで渡れるようになります」
「早いですね」
「四年待った工事ですから」
ヴァレリーさんはそう言って、少し笑った。
「皆、待っておりました」
*
その日から、ヴァレリーさんは毎日、執務室に来るようになった。
アンリさんが書類を三つに分け、ヴァレリーさんがそれを説明する。二人で仕事を分けているらしかった。
ヴァレリーさんの説明は分かりやすかった。
アンリさんは数字を正確に言う。どの村に何人いて、去年の麦がどれだけ穫れて、道が何日潰れたか。全部合っている。けれど私は、その数字が何を意味するのかを毎回聞き返さなければならなかった。
ヴァレリーさんは違った。
「この堰を直しますと、下流の四つの村が水を分け合えるようになります。いまは上の村が先に取ってしまうので、下の村が毎年もめております」
「喧嘩しているんですか」
「二十年、ずっと」
「じゃあ、直したほうがいいですね」
「はい」
ヴァレリーさんは紙を私の前に置いた。
「陛下は、決めるのがお早い」
私は印を押しながら、顔を上げた。
「早いですか」
「早うございます」
「よく分からないまま押しているだけです」
「そうではございません」
ヴァレリーさんは言った。
「陛下は、直したほうがいいかどうかだけを聞かれる。金がいくらかかるか、誰が反対するか、それはお聞きにならない。だから早いのです」
私は少し恥ずかしくなった。金のことも、反対する人のことも、考えていなかったからだ。
「それは、いけないことですよね」
「いいえ」
ヴァレリーさんは首を振った。
「四十年、この国はそれを考えすぎて動きませんでした」
*
褒められる、ということに私は慣れていなかった。
村では、薬草を持っていくと礼を言われた。それは褒められたのとは違う。ありがとう、と言われるのと、よくやった、と言われるのは別のことだ。前者は物に向けられていて、後者は人に向けられている。
森には、そのどちらもなかった。
木は返事をしない。石も草も返事をしない。私はそれで構わないと思っていたし、いまでもそう思っている。挨拶というのは、返ってくるかどうかとは関係のないものだ。
ただ、七日に一度村へ降りるのが待ち遠しかった理由を、私はいま少しだけ分かった気がした。
マルグリット婆さんは一度だけ言ってくれた。あんたはよくやったよ、と。死ぬ前の日と、掘り起こした日に。
それ以外に、覚えがない。
ヴァレリーさんは、毎日それを言った。
ご決断が早い。お考えが真っ直ぐでいらっしゃる。この案を通されたのは陛下が初めてです。
言い方に、媚びるところがなかった。世辞を言う人は、言ったあとに相手の顔色を見る。この人は見なかった。言ったら次の書類に移る。事実を述べただけ、という調子だった。
だから受け取ってしまうのだと思う。
言われるたびに、私は落ち着かなかった。
落ち着かないのに、また言われたいと思った。
幾日もしないうちに、私はそれに気づいていた。気づいていて、やめられなかった。
*
十日ほど経った日のことだ。
ヴァレリーさんが、いつもより厚い束を持ってきた。
「陛下。東部の五つの村について、ご相談がございます」
「はい」
「十二年前、東との戦で失いました。国境が動きまして、いまは東の国の管区に入っております」
私は地図を見せられた。文字は読めないが、線と色は分かる。
「そこに人が住んでいるんですか」
「住んでおります。千二百人ほど」
「その人たちは」
「ヴィタリスの民です。十二年前まで、税もこちらに納めておりました。いまは東の国に納めております」
ヴァレリーさんは私を見た。
「取り返すべきかと存じます」
執務室が静かになった。
アンリさんが、書類の束を卓に置く音がした。
「宰相」
「はい」
「その件は、私の代に三度上がりました」
「存じております」
「三度とも、私が退けました」
ヴァレリーさんは、アンリさんのほうを見なかった。私を見たままだった。
「存じております」
*
二人は、それきり黙った。
私は何が起きているのか分からなかった。二人とも穏やかな顔をしていて、声も荒げていない。それなのに、部屋の空気が変わったのが分かった。
「あの」
私が言うと、両方がこちらを向いた。
「取り返すというのは、戦をするということですか」
「必ずしも」
ヴァレリーさんが答えた。
「まず使者を送ります。十二年前の境界は、戦の混乱で引かれたものです。あちらにも言い分はございましょうが、こちらにも記録がございます。話し合いで戻ることもございます」
「戻らなかったら」
「そのときは、また考えます」
私はアンリさんを見た。
「アンリさんは、どうして退けたんですか」
アンリさんは少しのあいだ黙った。
「兵が足りませんでした」
「今は」
「足りております」
それだけ言って、アンリさんは次の紙を取った。
私はその横顔を見た。何か言いかけて、やめた人の顔だった。この人はよくその顔をする。
「使者を送るのは、いいことだと思います」
私は言った。
「その人たちが、こちらに戻りたいと言っているなら」
「確かめてまいります」
ヴァレリーさんは頭を下げた。
私は印を押した。
押してから、アンリさんのほうを見た。
この人は、私が印を押すところを見ていなかった。




