第188話(幕間):一人でございます
午後に、呼び出しがあった。
書きかけの一枚を伏せて、袖を直した。髪に手をやる。
直すところは無い。
*
「ドゥアルテ法官長、参上いたしました」
陛下は窓のほうを向いて立っておられた。
「オソリオ侯が出た。西へ回った」
「聞き及んでおります」
「メンドーサ公の船も出した。東に残した」
分けた、ということである。
「両方に出せば、どちらの家にも不興は残らぬ」
陛下は振り向かれた。
「そちは、一つに絞れと申したな」
「申し上げました」
「余は分けた」
「はっ」
「赤い旗のことだ」
「はい」
「メンドーサ公は、あれからも言い続けておる。拠り所を明かさぬ者に、国の船は預けられぬ、と」
「ごもっともかと存じます」
「そちは、そう思ってはおるまい」
「仰る通りにございます」
陛下は王冠の縁に指を掛けて、位置を戻された。
「では訊く。あれは、なぜ保つ」
「あの男には、失うものがございません」
家族は縛り首になった。女は死んだ。国は捨てた。
「銀を積んでも動きません。脅しても効きません。失うもののない者を動かす手は、一つしかございません」
「一つとは」
「失うものを、こちらで作ることにございます」
返答は無かった。
「作りましたので、動きます。以上でございます」
「それは、人か」
「はい」
「何者だ」
「一人でございます」
*
陛下の指が、王冠から離れた。
「一人、と申したか」
「申しました」
「余は、数を訊いたのではない」
「臣は、数でお答えいたしました。ほかに申しようがございませんので」
窓の外で、鳥が二羽、屋根から屋根へ渡った。
「その物言い、法官長の分であるか」
「恐れながら、分は存じております」
「存じておって、そう申すか」
「はい」
鳥は、もう見えなくなっていた。
「陛下。あの旗が下りますと、雇いの船は雇いに戻ります。銀が尽きれば帰る者たちでございます」
「分かっておる」
「そうなればヌオモの港は保ちます。保たれれば、こちらは兵で押すことになります。あの総督が退いたとは申せ、ヌオモの守りは厚うございます」
「押すのであれば」
「船をあと三十と、兵を八千は積み増さねばなりません。積み増した者が、みな戻るとは限りません」
そこまで申し上げて、私は止めた。
「一人でございます、と申し上げましたのは、そういう意味でございます」
*
陛下は、私のほうを見ておられなかった。
「西の港のことだが」
「はい」
「オソリオ侯には、焼いてよいと伝えてある。倉も網もだ」
「承知いたしました」
「もう一つある」
「はい」
「セフォーの兵が、ヌオモの港に入ったと聞いた」
「入っております。ドラントも同様にございます」
「同盟か」
「同盟にございます。セフォーは王女を名代として出しております」
「では、あれは三国であるか」
「三国でございます。ただ、まだ動きません」
「なぜ」
「向こうも、境を越える形を作れずにおります。越えれば、こちらが正面から戦を宣する口実を得ますので。あちらの宰相は、そこを承知しております」
「小賢しいのう」
「はい。臣も、同じことを申し上げております」
陛下は答えられなかった。
「四つ目がございます」
「四つ目」
「ヴィタリスにございます」
陛下の指が、また王冠へ行った。
「あの国は、遠かろう」
「遠うございます。ですが、ヌオモの港に兵を置いております」
「赤い旗の男は、何と申しておる」
「何も申しません」
*
あの男からは、港をいくつ焼いたか以外は上がってこない。
訊けば答える。訊かねば、答えない。
「同行した船からは上がっております。ただ、船乗りの申すことでございますので」
「申してみよ」
「倒れぬ兵がいた、と」
陛下は何も仰らなかった。
「斬っても向きを変えず、矢を受けても崩れなかった。そう言う者が、一つの船ではなく、幾つかの船から出ております」
「船乗りの申すことであろう」
「船乗りの申すことでございます」
私はそう申し上げた。
「噂を、政の上に置くわけには参るまい」
「臣は、噂とは申しておりません」
陛下は、王冠の位置を戻された。
「西の港の話に戻る。オソリオ侯には、日を切って報せよと伝えておけ」
「承知いたしました」
それきり、赤い旗の話は出なかった。
私は一礼して、下がった。
*
自室へ戻ると、卓に束が届いていた。
月に一度、この形で届く。どこから届いたものも、同じ形をしている。紙の大きさも、書く場所も、書く順も、私が決めた。
同じ形をしているものは、どこから来たかが分からない。
紐を解いて、めくった。今月も揃っている。
一枚を引き抜いて、残りは戻した。
この一枚を、あの男に渡す。男はそれを、最初に渡した一枚と見比べる。
同じであれば、生きている。それだけを、あの男は知る。
どこにいるかは、知らない。
封に入れて、引き出しに収めた。
鍵をかけて、書きかけの一枚を表に返した。
末尾の位置が、書式より二字ぶん高い。
これは戻す。




