第180話:お願いします
窓が白くなっていた。
誰も、そのことを言わなかった。帳面はまだ床に広げたままで、私の指は墨で汚れている。
*
「連れ出そうよ」
セヴィが言った。
箱の縁に肘を置いて、いつもと同じ調子だった。
「その子を返せば、あの赤い人がロルオーにいる理由が無くなる。船も海賊も残るけど、束ねる人が減る」
「連れ出す、というのは……」
「文字通りの意味だよ」
セヴィの言いたいことは理解できる。ただ『理解』と『肯定』とはまた話が別だ。
「僕とライアンとディエゴで行く。三人なら動けると思うんだ」
どうやらライアンも行くらしい。……私だ。
「いくらなんでも危険過ぎます」
ファティマ様だった。
「セヴィリーナさん。あなたが仰っているのは、敵国の街に入るということです」
「うん」
「入って、子どもを一人連れて、出てくるということです」
「そうだよ」
「無謀です」
「ファティマ様の仰る通りだ」
私は言った。
「なぁ、セヴィ。私たちは行き方も、道も、戻り方も知らない。あの国の風習や作法もだ」
ムフタル殿も口を開いた。
「その、私からも……」
そこで止まった。
水差しに手を伸ばして、掴んで、飲まずに置いた。
「……いえ。なんでもないです」
アフメド王は、何も仰らなかった。
口を真一文字に結んだまま、話を聞いておられた。
「そっか」
セヴィは立ち上がって、埃を払った。
「じゃあ、王様に相談しよう」
誰も止めなかった。いや、止められなかった。
*
セヴィが出て行ってから、部屋は静かになった。
さっきまでも静かだったが、あれとは違う。あれは言えない静かさで、これは待っている静かさだ。
ファティマ様は紙を揃えておられた。何度も揃え直しておられた。
ムフタル殿は水を飲んだ。今度は飲んだ。
アフメド王は、腕を組んで目を閉じておられる。
私は、墨で汚れた指を見ていた。
*
半刻ほどして、戸が開いた。
「連れてきたよ」
エリアス陛下だった。
その後ろにディエゴがいて、こちらを見て眉を上げた。何も聞かされずに引っ張ってこられた顔だ。
「おはようございます」
陛下は、部屋の全員に頭を下げられた。
「皆さん、寝ていないんですか」
アフメド王がお返しになった。
「まあな」
「疲れてしまいますよ」
「王様。座って」
セヴィが、書類を入れていた箱の一つを指した。
自分の王を箱に座らせる者がどこにいるのか、と思ったが、陛下は素直に座られた。
「話すよ。長くないから」
「わかりました」
「七年前に、この国に女の人がいた。名前はナディア」
「ナディアさん」
「その人には、決まった相手がいた。レイスっていう人。剣が強くて、有名だった」
「レイスさん」
陛下は、まっすぐセヴィを見ておられる。
「でも、偉い人がナディアを気に入って、無理やり自分のものにした」
陛下は、何も仰らずに頷かれた。
「そのとき、邪魔だからって、レイスの家族を捕まえて、殺した。悪いことをしたって嘘の罪をつけて」
「かわいそうです」
「レイスは、それは違いますって国に言いに行った。何度も行った」
「はい」
「でも、聞いてもらえなかった。偉い人が手を回してたから」
「ひどいです」
「それで、レイスは国から逃げた。海賊になった。それから七年、この国の船と港を焼いてる」
陛下は、何も仰らなかった。
膝の上で手を組んで、そこを見ておられた。
「ここからが今日分かったこと」
セヴィは帳面を持ち上げた。
「ナディアは、連れて行かれたときに、もうお腹に子がいた。本人も気づいてなかった。生まれて、そのあとにナディアは死んだ」
「子どもは、無事なんですか」
「生きてる。女の子。名前はサフラ。いま六つ」
「レイスさんは」
「知らなかったと思う」
「一年前に、その偉い人はアフメド王に罰せられた」
セヴィはアフメド王のほうを見なかった。
「家が潰れて、残った人たちはロルオーに逃げた。そのときに、その子も連れて行かれた」
「ロルオーに行ったんですね」
「ロルオーは気づいたんだと思う。この子が誰の子か」
「どうなったんですか」
「レイスに教えた」
*
「レイスはたぶん。ロルオーに嫌々従ってる」
*
陛下は、しばらく動かれなかった。
「サフラさんは、いま、ロルオーにいるんですね」
「うん」
「六つですか」
「そう、六つ」
「きっと、お父さんと遊びたいはずです」
陛下の声の質が少しだけ変わった。何かを思い出して話しているかのようだった。
ファティマ様は目を伏せられていた。アフメド王は静かに視線を天井へ向けた。
「私がロルオーの人とお話すれば、なんとかなりますか」
「たぶん聞いてくれない」
「サフラさんは怪我しているんですか」
「わからない。でも無事だと思う。怪我をしたり酷い目にあっていたら、レイスが従わないだろうから」
「そうですか」
*
陛下が立たれた。
私は、この方が次に何を仰るか知っていた。
行きます、と仰るはずだ。この方はいつもそうで、訊いてから決めるということをなさらない。
誰の返事も待たずに、先に歩き出される。
だから私は、止める言葉を先に考えていた。
*
「私は、行けません」
*
考えていた言葉が、行き場を失った。
「私は怪我をした人を助けることができます」
全員が陛下を見ていた。
「でも今回、サフラさんを助けるのに、私は役に立たないと思います」
「エリアス陛下!」
ファティマ様が陛下の元に駆け寄り、その手を握られた。
「そのようなことは決してございません!陛下は、陛下はいつもそのお力を尽くされ、幾度となく我々を救ってくださいました!」
その声は震えていた。
「私は怪我をした人を助けることができます」
陛下は繰り返された。
「でも、文字が読めません。上手にお話ができません。皆さんが当たり前にできることを、私はできません」
陛下は、そこで一度、口を閉じられた。
「私が行っても、力になれないです……」
*
セヴィが言った。
「王様。だから、僕らがいるんだよ?」
陛下は部屋の中を見回された。
ファティマ様、セヴィ、ディエゴ、私、アフメド王、ムフタル殿。一人ずつその顔をご覧になった。
そして、深々と頭を下げられた。
*
「私の代わりに、サフラさんを助けてあげてください。お願いします」




