第171話:全て、白紙だ
明日の段取りを、紙に書いておりました。
誰がどこに立つか。順はどうするか。城の広間に入れるのは何人か。
書けることは、書き終えておりました。それでも卓を離れられずにおりました。
*
扉が叩かれたのは、夜半を過ぎてからでした。
司祭は、埃を落としてもおられませんでした。
「ファティマ様」
「ベルナール司祭。お掛けください」
「先に、申し上げます」
立ったままでした。
「起き上がった者は、おりませぬ」
息を、吐きました。自分が息を止めていたことに、そこで気づきました。
「よう、ございました」
「私が確かめられた限りにおいては、でございますが」
司祭は、そこで初めて椅子に手を掛けられました。掛けはなさいません。
「陛下がお歩きになった道を、後ろから参りました。町のどこに埋めておるかを見て、道筋との遠近を測っております」
「どのくらい離れていたのでしょうか」
「近くはございません。ただ、どこまでが内側かは、以前に申し上げたとおりでございます」
わからない、でしたね。
ベルナール司祭が続けます。
「今夜のうちに」
「はい」
「エリアス陛下は」
「先ほど部屋をお訪ねしましたが、よくお眠りになっていらっしゃいました」
「それは何より。陛下のお耳に入れるわけにはまいりませんので」
私は頷きました。
*
アフメド王の部屋には、灯りが入っておりました。
宰相のムフタル殿もおられます。卓の上には、昼間の海図がそのまま広げてありました。
「なんだ、明日まで待てねぇのか」
王は椅子から立たれもせず、そう仰いました。機嫌のよい声でした。
「夜分に、申し訳ございません」
「構わんよ。いつも寝るのは明け方だ。……あんたが、噂の司祭殿か」
「ベルナールと申します」
「聞いてる。会えて何よりだ。掛けてくれ」
司祭は立ったままで言葉を続けました。
「一つ、お伝えせねばならぬことがございます」
「なんだ、明日の調印のことか」
「その前に」
*
「エリアス陛下がご自分の足で踏み入られた土地は、陛下の土地になります」
*
アフメド王は、静かに聞いておられました。
「そしてその内側で死んだ者は、起き上がります」
灯りが、少し傾ぎました。窓が開いているのだと、そのとき気づきました。
海の音がしておりました。
*
「歩いた、というのは」
「文字どおりにございます」
「足で、地面を」
「はい」
「その坊主が、俺の町を歩いた」
「はい」
「城も」
「はい」
王は、卓の上の海図をご覧になりました。それから、私を見られました。
「王女殿下は、知っていたのか」
「……存じておりました」
やわらげる言い方は、いくつも思いつきました。どれも使いませんでした。
*
その一言のあとで、部屋の中の何かが変わりました。
私には分かりました。この方は昨日、同じことを、逆の向きにされたからです。
「左様ですか」
アフメド王は口調を、丁寧な言葉に、直されたのです。
*
ムフタル殿がベルナール司祭に問い掛けます。
「あの、すみません。一つよろしいでしょうか。とても大事なことです」
「どうぞ」
「いつから、でございますか」
「と、申されますと」
「ああ、その。いつというのは、文字通り時期のことでして。つまりですね、いつ死んだ者までが、その、対象になるのでございましょう」
「腐りきっておらぬ者まで、としか申し上げられませぬ」
「なるほど、なるほど……。では日数では、どれほどだと、皆さんはお考えでしょうか」
「恐らくですが、目安は一週。夏は短く、冬は長い。土の下は長く、野に置かれれば短うございます」
ムフタル殿は、それきり何も仰いませんでした。代わりに、水差しに手を伸ばされました。
*
「これから死ぬ者は」
アフメド王がベルナール司祭にお尋ねになりました。
「半刻ほどのうちに」
「半刻ですか」
「はい」
町に人が幾人いて、そのうち一日に幾人が亡くなるものか。
いつもなら、そこから数え始めております。父の卓でも、作戦の卓でも、私はそうしてまいりました。
今夜は、数える先が出てまいりません。
王は、しばらく黙っておられました。
「戻せるのですか」
「戻りませぬ」
「一度もないと、そう仰る」
「ございませぬ」
*
司祭は、目を閉じておられました。
弁明されません。言葉も足されません。
私が申し上げようとしたことは、二つございました。どちらも申し上げませんでした。この方が黙っておられるのに、私が喋るのは違うと思ったからです。
そして、司祭は、驚いておられませんでした。
*
「六年でございます」
アフメド王が仰いました。
「私は六年で退きます。次の王を選ぶのは、この国の者です。私ではございません」
「存じております」
「その者に、私は何を残すのでしょうな」
王は立たれました。窓のほうへ歩かれて、外をご覧になりました。海の音が、少し大きくなりました。
「あの坊主に値がつかんのは、変わらん」
口調が、また変わりました。
「純粋すぎて値がつかん、と思った。あれは取り消さん。だが、あんたらには値がついた」
振り返られもしませんでした。
「明日は、人を集めることになっている」
「陛下」
「全て、白紙だ」




